No.336 ミニ祈祷会の提唱 2008.6.08

ミニ祈祷会の提唱

 「ミニ祈祷会」とは何でしょうか。
 実は、東京都府中市の緑の牧場教会の染本牧師夫妻が東京の桧原村に「祈りの家」を建てられた。その時、幾多の困難があったけれど、お2人で祈りに祈って、その建設を完成されたという。その時の証詞の冊子を頂いたのです。
 その祈りというのが、ご夫妻が1時間ほどでしょうか(その時間は正確には忘れましたが)、お2人で祈りを「積み上げ」て、そのあと別れて祈ることもしたらしいのです。その「積み上げ」の祈りの証しに私は心を打たれたのです。そして魅かれました。
 私は「積み上げる祈り」というものを、私なりに想像してみました。たぶん、ご夫妻で交互に何度も何度も祈りを交えて、キャンプ・ファイヤーで薪を次々にくべて火を大きく燃えたたせるように、祈りを燃え尽くせるまで祈り尽くすのではないでしょうか。
 私はこういう祈りのスタイルについては、これまで聞いたことがありません。もっとも、中国の宣教師の本で「会話の祈り」というのがありました。これは私は真似して見て、うまく行きませんでした。
 辻 潤 牧師先生の週報で「みんなで交互に短く祈る祈祷会」の様式を聞いたことがあります。これは集団的ではありますが、似ていると思われます。しかし、この染本先生夫妻の「2人で積み上げる祈り」というのは、もっと緊迫、かつ親密な祈りが想像できるのです。
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 染本先生の「積み上げ祈り」ですと、たぶん2人で心行くばかり交互に祈って、ついにある心の(霊のと言ったほうが良いでしょうが)一致点に到達するだろうと思います。
 こうして完全な一致に至ったとき、それを第一コリント7章6節でいう「合意」と呼ぶことができるのではないでしょうか。この第一コリント7章は夫婦の教えのところではありますが、こうあります。
 「合意の上で祈りに専心するために、しばらく相別れ、それからまた一緒になることは、さしつかえない」と。この教えは夫婦生活における祈りに関することでありまして、少々場が違いますが、しかし、この染本夫妻の「積み上げ祈り」に当てはまるところがあります。
 つまり「積み上げ祈り」において2人の魂が全ったき一致に至ったならば、そこで別れて祈っても差し支えないということです。そこに至ったならば最早、お互いに不調和はおこらないはずだから、ということです。
 それでも、人間は個的にはそれぞれ異なる環境と条件に応じますから、やはり毎日「積み上げ」の祈りを実行しなければ、いつしか2人の心が(霊的にも)離れ離れになってしまうことは当然予想できます。そこで夫婦たるものは、常に日ごろの「一致祈祷」を保つ心がけが必要であるに違いないと思ったのです。これが私の染本牧師夫妻の証詞を読んだとき、考えたことでありました。
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 そこで、実は私ども夫婦もこの「積み上げ祈祷」の真似を始めたのです。それは、この7月の末頃だったと覚えています。そしてそのことをさっそく、8月11日の主日礼拝のメッセージでは発表してしまいました。
 今、やっと1か月つづいているだけの体験でして、完全一致などというところに到底辿りついていると思えません。
 しかし非常に不思議な霊的次元に乗ってきた感じはします。実は私は30歳代に「常に神様に祈っている」という状態に突然入れられて驚愕したことがあります(それは2、3年して無くなりましたが)。
 その時の臨在感に比して、もっと対話的であるのが今回の特徴です。それは幾分、後記に紹介しますが「神の現存の体験」というのに似ています。
 ところで、この祈りの方式は夫婦の間だけではもったいない、クリスチャンのすべてに必要なことだと私は考えたのです。そこで、信徒のみなさんにお勧めしたわけです。
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 みなさんの信仰の友人の中から(当然夫婦、兄弟、親子も含めて)一、二の友を選んで互いに了解し、その上でこの「積み上げ祈祷」を試みてみませんか。しかし最初から完全なものを求めなくてもよいでしょう。出来るところから始めてみませんか。この小グループは何も固定化する必要はない、別の組合わせに変わって行って結構、これが言うところの「ミニ祈祷会」なのです。
 よく言われる「セル(細胞)組織」を造ろうとするのではないのです。もっと非統率的な自由な集団形式を予想しています。「聖霊様による一致」とも言うべき「親密な細胞」の群になれたらよいのです。
 すべての「細胞」が自由に有機的に一体化して一つの意識的生命体を造るということですが、機械的硬直的構造をつくることを忌避したいのです。そのようにしてキリストの体の枝としてふさわしい教会が出来上がると嬉しいのですが。
 始めてみても、今後どのように発展するか、わかりません。試行錯誤を重ねて、うまく行かない点や、良い点や、様々な経験を経て行くことでしょう。諸兄姉、始めてみてくれませんか。
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 古い友である鬼塚美幸姉から紹介された良書を紹介します。
 ラウレンシオ修士著「神の現存の体験」(ドン・ボスコ社発行750円)です。著者のラウレンシオは私たちの間では、英語読みでブラザー・ローレンス、実名でニコラス・ヘルマンとして知られている人です。
 この本の一部は「神とともなる霊的生活」などという書名で出版されています。このドン・ボスコ社発行のものは全訳ですが、翻訳がカトリック風で私たちにはなじめない点もありますが、辛抱して鰹節を噛むような気持ちで読むなら、却って、いつしかよく理解でき、また体得的に分かってくるでしょう。霊操的な本ですから、体得しなければ、意味は無いのです。《く》(再掲載/週報96・9・15より)


アルファ伝道の真似をしよう

 アルファという運動がある。この度、永井信義先生が大分駅裏のグレイス・チャペルに来られて、そのアルファの説明会(セミナー)をされた。
 このアルファという運動はイギリスで始まったかと思うが、未信者さんを含めて誰でも参加できる楽しい伝道方法である。まず信者未信者を問わず普通の家庭を会場とする。
 楽しい会にするために、いいアイデアがある。最初にまず食事を出しておもてなしをする。人は口に何かを入れて食事運動をすると楽しくなるし、おしゃべりになる。
 この効果で、誰彼となく話題を増やしていくうちに、いつかはキリスト教の話題になってしまう。
 とは言え、無理はしない。キリスト教の教理の無理な押し込みはしない。質問自由。「分からないことは分からないまま、あとで調べてきます」、とお答えする塩梅で初心者に見えてもかまわない。
 このやり方だと、伝道もみんなで励ましあって出来る。やりがいがあって楽しい。しかし、楽しくなるまでには、多少の訓練もいる。しかし、その訓練も楽しくやろう。
 何よりも、基礎勉強をしているだけで信仰が楽しくなる。義務感でなく使命感も湧くので、勉強の楽しくなる。そして伝道に出かけて行く時さえ、仲間と一緒に行けば、思いもかけず、喜びも楽しみが湧いてくる。
 そして一応の伝道訪問を終わり、帰ってくる時には達成感で心が一杯になる。小学校以来、味わったことのないような達成感、これは人生において滅多に味わえない無上の満足、歓喜、充実感、満身の感激である。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-06-10 14:55 | 日岡だより
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