No.331 老齢化と少子化の問題 2008.5.4

老齢化と少子化の問題

 この日本という国を支えるのは、天皇様でも福田内閣でも、自衛隊でもない。我々日本人であります。 そこで、今の日本人を見ると、非常に不安になります。一応、総人口は1億2700万と覚えていますが、頭はいいし、健康です。ユーモアもあるし、勉強好きです。勤勉です。他の国々の国民に比べると優秀だと思います。
 しかし、私は不安を覚えるのです。それは我々国民の数のことです。この国民の老齢化と小子化です。このままでは日本民族は老齢化と小子化で自然消滅するのではないか。
 この不安は、あながち杞憂とは申せません。本当の愛国者なら、真剣に考えるべきことです。
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 ここで、もう一つ私の真剣に言いたいことは、私どもの教会のことです。日本中のキリスト教会にあてはめられることかも知れません。
 私どもの教会の毎週の主日礼拝の出席状況を見る時、その「老齢化と小子化」に心配しないではおれません、いかがでしょう。これは大変な問題です。
 牧師としての私自身の86歳という高齢さが影響しているのでしょうか、並び居るみなさんも続々と年配者の顔ぶれです。そして若い人、またお子さんが殆どいない。これでは年月がたつと、この教会はつぶれてしまいます。これは極論でしょうか。
 敢えて申し上げるならば、私ども自身、教会の礼拝や、その他の諸行事への、ご自分の家族や、特にお子さんがたに対する案内や誘いが、鈍いのではないか、あるいは皆無なのではないかと心配するのです。「信仰は自由です」などという自由主義的悪魔の言葉に操られていませんか。ここでお互い反省しましょう。《く》


自制心の強化と発展

 クリスチャンの徳のなかで案外見落されやすいけれど、しかもとても大事なものだと指摘したいのが「自制心」です。冒頭の徳という言葉は、聖書の中では新約聖書にだけ出てくる「アレテー」という言葉です。希和辞典には「卓絶した道徳的力」とあり、W・バークレーは「神と人間とにたいする奉仕の実際的力、またそれを行う勇気」と説明しています。
 聖書では、これを聖霊の実の一つとしてあげています。ガラテヤ5:23にその徳、つまりクリスチャンの品性の一つとしています。その最後にありますが、それは最も重要な徳目だということです。
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 ある高名な聖書事典を開いて、その事典で「自制」という所を開きましたら、→印で「禁欲を見よ」とあります。つまり、自制と禁欲とは同意義と認めているようです。私はがっかりしました。
 本当にそうなのでしょうか。私は禁欲は自制の一部ではあるが、自制そのものではない、自制は禁欲をはるかに超えた徳だと思うのです。
 しかし、この事典では、自制とは、タバコを止め、酒を止め、ダンスをしない、テレビを見ない、美食をつつしむ、性欲もつつしむ、そういう修道院の生活のように思っているのだろうと思います。
 たしかに、自制にはそのような消極的な面もあります。暴走しやすい肉的な思いや言葉や行動を制御することは大切なことです。しかし、それだけでは自制とは単なる行為的律法の一つにすぎないということになります。
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 自制とはもっと積極的な英雄的徳です。人間の本能的な欲望、感情の動き、行動の一切を、自己の思うとおりに支配して、その向かう方向を自在に自己の意志できめる力です。
 外面的行動や行為を自分の思うままに制御することは、あるいは強固な意志力なら可能でしょう。しかし感情の受動的即時発現性や、本能的食欲や性欲の勃発性など、これは私たちの単なる意志力では、その外面な言葉や行為を覆い隠すことはできても、その内面的心の動きを「抑える」ことはできないのです。
 「抑える」ということは、明らかに「禁欲」的意志力です。「自制」というのはそれと違うのです。「自制」というのは「禁じ、束縛する」のではなく、本能や感情が自発的に働いて、それがおのずから正しい方向に動き、悪いほうに働かないようにする力、自己推進力です。
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 説明します。たとえば、タバコを止めようとします。それは、それぞれ本人の嗜好ですから、無理に止めようとするのは、大いに困難です。そこで決心した本人が、厳しく厳しく自己抑制して、禁煙を忍耐して持続し、やっと成功する、そういう人はごく少数です。その方々は本当に称賛すべき英雄的な人たちですが、多くの人たちにとっては不可能なのです。それでも、僅か少数の人は成功します。
 以上のような場合、別の信仰的方法として、神様に祈って具体的にタバコを止める力を神様に求め、それを神様に委ねた上で、自己の意志力の強化、それを発動する力が与えられることを信じ、かつ言葉の力を補助的に使って、「私はタバコを止める。私はそれが出来る」と何度も声高に宣言するのです。この方法は必ず実現可能です。
 非常にいじめられたり、非道な仕打ちを受けた相手にたいする深い憎しみや復讐の心を愛に変えること、これもいわゆる努力や忍耐や抑制では不可能です。その憎しみを忘れたことにして、そっと放っておいても、時折ふと思い出したり、当の相手が目のまえに現われたりすると、もう内心穏やかでありません。それを悪いことだと思って、その心を覆い隠すことは出来ますが、それは偽善にすぎないのです。
 本当に、マグマが地殻の下から噴きあげてくるような本能的悪徳の思いがあるものです。特に青年期の男性諸君の性的誘惑にたいしては、普通「戦うな、逃げよ」と言うほかはないのです。こういう時、本当に聖霊の実(ガラテヤ5:23)としての自制の力が必要です。特に既婚者に対しては、神様よりの賜物としての独身の霊性を必要とします(第一コリント7:7参考)。
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 自制心とはこういうことです。たとえばイエス様を見ていると、愛に富んで居られるけれども、弟子やパリサイ人たちに怒るときは何のこだわりもなく怒っているようです。愛のお方ではあるけれど、怒るべきことがあるから表面だけ芝居で怒っているというのではありません。イエス様は本気で怒っているのです。そうです。いつも嘘いつわりなく、偽善でもなく、正直に本気で泣いたり、怒ったり、笑ったり、しているのです。
 つまり、本心の意志で嬉しい時に喜び、悲しい時に泣き、腹がたつ時に憤るのです。いつも自由です。本心ありのままに、本心のままの意志による統制力で感情を動かしています。意志が感情の上位に立ちます。これは普通の心理学の否定するところですが。
 「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦婬したのです」(マタイ5:28)と仰せられたイエス様は、世の男性の性欲の在りようを、よく知っておられることに驚きます。イエス様ご自身に性欲がおありだったからです。しかもイエス様はそれをしっかりと自在に統制なさって罪の心を微塵も抱かれなかったのです。私たちには見当もつかないイエス様の心的内容です。しかし、自制心というのは、そういうことです。
 私たちに、イエス様ほど完全にそのような自制心を持ち得るとは言いません。しかし、もし私たちが聖霊様にそのことを求め、聖霊様に完全に支配され、また自ずから自分の意志に命令し、言い聞かせるとき、そのことは成就すると私は信じています。《く》

〔あとがき〕
以上は、拡大宣教学院機関誌「マグニファイ」1996年6月15日号に掲載した小生の旧稿です。多分に修正しましたが、今から見ると、まだまだ粗雑な文章です。意のあるところはご理解いただけると思いますが、クリスチャンの聖化論の一部として興味を持っていただけるのではないでしょうか。是非、先生がたのご教示も頂きたく存じています。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-05-06 13:29 | 日岡だより
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