No.329 信仰とは神とのプライベートな交わりである 2008.4.20

信仰とは神とのプライベートな交わりである

 「信仰とは神とのプライベートな交わりである」。この言葉を私に語ってくれたのは、年齢においても、信仰の経歴においても、私の後輩ではあったが、信仰そのものにおいては、真に私の先導者として、深い霊的洞察者として、敬愛してやまなかったS先生であった。
 もう50年ほど前のことであるが、私は先生といっしょに長野県のある病者の方を訪ねて癒しのご奉仕をした後、名古屋に下り、四国に飛んで、徳島県、高知県、愛媛県、大分へと伝道旅行をしたのであったが、私は先生にくっついて歩くだけで、聖書講義は時おり私もしたであろうが、本番の按手祈祷はS先生である。
 先生の按手祈祷には正に天来の趣があった。火であり、光であり、高圧電流の如きであった。特に吉野川のほとりの小さな町における集会では、悪霊がなかなか出て行こうとせず、家の中を逃げ回って、ついに旧式の風呂釜の中に閉じこもって、蓋をかぶって怯えているという、吹き出したくなるような場面もあったくらいだ。
 神様が直接、私たちと、私たちの問題に触れて下さる時、それをプライベートな接触と言おう。その時、悪魔を撃退する御業、奇蹟が起こるのである。
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 先週の主日の礼拝のあと、例によってあちこち自由な小集団が生じるが、私の居たグループで、私がふと「今、この教会で足りないものは何かねえ」と言ったものである。
 私は心の中で、「若い人が少ない」とか、「伝道の精神ですね」とかいう言葉を期待していたが、ところが思いもかけない言葉が返ってきた。
 「先生、それは奇蹟です」
 私はちょっと返す言葉を失ったが、その一信徒さんの言葉を「本当だ」と肯定するほかはなかった。
 まことに、教会に必要なものは三位一体の神によって起こされる奇蹟である。それが無ければ教会ではないと言えば、言い過ぎかもしれないが、しかし正にそのとおりである。
 教会において最も期待される、ただ一つの奇蹟をあげれば、会衆の全員に聖霊様が働いて、一瞬の回心が起こり、各自の心に確実な信仰が与えられる。これこそ、最大の奇蹟である。とは言え、
 一応、私たちの間では、まず奇蹟と言えば、だれでも真っ先に思うのは、神癒です。そう言えば、最近は信仰によって病気が癒されたという報告が、この教会でも余り聞かないねえ、と思っていた。
 ところが、先ほど「先生、それは奇蹟です」と私に返事してくれた兄弟こそ、最近のことだが、自宅でか、訪問先でか知らないが、ともかく「癒しの奉仕ができました」という報告をしてくれたばかりのことであったのです。
 なるほど、彼はその神癒の喜びを味わったばかりの時であったからこそ、「先生、それは奇蹟です」とはっきりした声で言えたわけだ、と納得したのだが、それに続く言葉は誰からもでなかった。
 そこで私は、そこに居た信徒諸兄姉たちにこう言うべきだったのだ。
 「さあ、みなさん、それでは奇蹟を期待して祈りましょう。何か皆さんに問題はありませんか。家庭で、職場や、近所付き合いや、いや教会のお互いの交わりの中で。事業で行き詰まった困っている人、家庭の不和、病気、子どもの教育、就職。それぞれ問題を持ち出して、心を合わせて祈りましょう。」
 この日の説教題がちょうど「心を合わせて、ひたすら祈ろう」だったですね。もってこいの場が出来上がっていたわけですから、すぐ祈り始めるべきでしたが、そうはなりませんでした。
 私もそれに気がつきませんでしたから、牧師としては失格ですよ、残念!
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 ここで、一転して書き改めたいことがあります。
先週のこの「日岡だより」では、2つの文章を載せてありました。一つは「信仰が深まる秘訣」。もう一つは「幸福であることの秘訣」でした。ご覧のように、「秘訣、秘訣、……」です。
 これは私の特徴かもしれません。ある牧師先生は私を評して「実技派牧師」と言いました。私はそれを知って、つくづく言い得て妙だな、と思いました。
 「笑えば必ず幸福になる」という私の作った小冊子は最もよく売れている本、これは「どうしたら笑えるか」という本です。この本の発行は10年前ですが、今や日本中「笑いましょう、笑いましょう」ですね。しかし、どうしたら不幸な時、腹の立っている時にも、笑えるか、その秘訣を書いてある本は、なかなか無い。それを十年前に私は、すでに書いてましたよ、ハハハハハ。
 私は小冊子しか作りませんが、たった一冊まともな出版は、CTCの古林三樹也先生の編集で、マルコーシュ・パブリケーションから出してもらった、「こうすれば信仰がわかる」です。本の題名からして、まさしく「……がわかる」、秘訣本です。
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 ところで「秘訣」の話は、ここで止めます。最も大事な信仰の神髄について語りたいのです。冒頭の言葉、「信仰とは神とのプライベートな交わりである」、これが本当の信仰です。実技とか、秘訣とか、この私の得意な分野は、単なる意識の整理法、便利ではありますが、信仰そのものではありません。
 信仰とは、魂の根底において究極の改変、その根底自我が聖霊の火に触れて死んで生き返る体験。それこそ、まったくのプライベート、純個人体験、激変する信仰意識です。聖霊体験と言います。
 これは、自力で体得しにくい経験です。歴史に残る聖人、聖者の中には自力で求めて求めて達成したかに見える人物の方々もいないわけではありませんが、まず我々には駄目です。
 とは言え、これを求める努力は必要です。聖書の学び、黙想、祈祷、これらはすべて、神を求め、イエス・キリストを求める努力の現れです。これらを続けているうちに、ある日、突然、神様のほうから私たちの魂に訪れてきます。
 そこで、私の先師T先生は「信仰とは神と人との協力作用である」と言われたのです。私はこの言葉を聞いた時、びっくり仰天しました。
 私は、それまで信仰とは「私は全く無力、善きものは微塵も無い。ただただ、神様の一方的恩寵によって救われるのだ」と信じていましたから。(勿論、この自覚も正しいと思います)。
 しかし、少なくとも神様の救いに対して「ハイ」と応答するだけの人間の側からの協力がいることは事実です。まして、「神様、有り難うございます。しもべはイエス様のお救いを信じます」と応答することは当然です。
 こうした人間のがわからの応答を、神様は、そしてイエス様は、如何にお喜びなさることでしょうか。
 言い替えれば、これはイエス様をお仕合わせにして差し上げられる最高のご恩報じです。(このことは、この度、松岡欣也先生が教えて下さいました。先生に御礼申し上げます)。
 私たちの信仰を見て、イエス様が大変喜ばれ、仕合わせになって下さる、この平凡な家族的(!)な幸福さを天において父なる神様を初め、イエス様、天使たちが、味わってくださるのだということ、これは、私たちの大変な親孝行だということを悟るとき、私たちにも天的な幸福がみなぎってくるように思います。
 私たちは今まで、自分のへそばかり見つめて「ああ、私は罪人だ、罪人だ」と、嘆いていたり、あるいは「もっと、もっと信仰を伸ばしたい。強めたい。まだまだ、信仰が足りない」と嘆いていたとしたら、しかし、もう顔を上げましょう。「イエス様、あなたを信じます。あなたに従います」と、叫びましょう。その時、イエス様は「おお、嬉しい。お父さま、地球で子どもたちがあんなに叫んでいます。私は仕合わせです」と父なる神様に向かって叫ばれるのではないでしょうか。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-04-22 12:42 | 日岡だより
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