No.320 わが友 荒巻保行、そして芥川龍之介 2008.2.17

わが友 荒巻保行、そして芥川龍之介

 1930年(昭和5年)3月12日、私の父が死んだ。その3月28日内村鑑三先生召される。翌年9月に満州事変が始まる、後の対英米戦争、いわゆる太平洋戦争へ拡大の端緒となった。(脱線するが、太平洋戦争の戦争責任を日本だけに負わせるのは酷だと私は思っている。しかし対中国戦争については日本に同情する余地はほとんど無いと私は思う)。
 思い出してみると、この昭和6年ごろから東北の冷害はあるものの、日本の国内事情はやや明るくなっていたのではないかと思う。
 日本中「東京音頭」で踊っていた感もある。年賀はがきの特別取り扱いが始まり、鉄道の機関車が形だけでも流線型になった。
 大分市ではデパートができ、エレベーターなるものに驚きの目を見はった。政府や軍部が戦争するも良し、と判断するだけの経済的余裕が日本にできかけていたのかも知れない。
           *
 1932年(昭和7年)5月15日、海軍青年将校らによる首相襲撃事件、いわゆる5・15事件が起こる。4年たって、1936年(昭和1年)2月26日、青年将校らによる大臣諸公襲撃、相当規模の反乱事件が起こる。
 その翌日、2月27日、伯父の釘宮徳太郎が永眠、東京の信仰の友人たちは一瞬、釘宮さんは大分の軍人たちに殺されたのかと思ったそうだ。
 その通夜や葬儀の席上で加藤虎之丞氏(後に伯父徳太郎の主宰する聖書研究会を継いでくださった、すぐれた弁護士さん)から当時の国際、国内の政治事情を聞いて、私の世界や東洋、日本に対する平和主義的関心と熱情が高まったのであった。
 後々の非戦主義はこの時から私の内に醸成されていったのである。もちろん、叔父徳太郎の残した信仰日記に大きい影響を受けたのは当然である。
 その時、私は14歳、大分商業学校2年生、小学校時代のブクブク肥えていた肥満体が消えて痩せ型の美少年に変わりつつあった時である。
 その頃か、友人たちとガリ版ずりの同人誌のひよこみたいなものを作って、学校の成績はどんどん落ちていった。(当時の同人、後藤君は時代ものの大衆小説を書いて榊君のお母さんを喜ばせた。榊君の妹さんにこの週報を送っているので、彼女を喜ばせたくて無理にこの記事挿入した、呵々)。
          *
 この商業学校の3年生のとき、荒巻保行君と親しくなった。彼が病気で休んでいるとき、私は彼に一篇の詩を送った。それが彼を喜ばせた。そして、生涯(!)を通じての心の友となったのである。
 彼がこの商業学校を卒業するとき、彼は文学好みで特にフランス文学をやりたくって、外国語大学に行くと言う。
 初め大分市内にある大分高商、後の大分大学経済学部に進学が母の希望だったが、私は文学部に行きたかった。ところが当時の学制では商業学校から文学部へは行けない。私は進学を断念した。
 これは私の短慮というか、失敗だったと思うが、とにかく叔父徳太郎の残した肥料問屋の店に勤めることにしたのである。私の家がその支店として肥料小売商をしていたので、まあ商売の跡継ぎ、かつ実習見習ということでもあった。
 ところで、荒巻保行のことだが、彼は東京外大の受験寸前に倒れた。胸を病んでいたのが分かった。当時の多くの青年をむしばんだ結核である。
 彼の父親は別府の山手にこじんまりとした別荘を建てて、そこに彼を保養させた。食事や身の回りの世話に年寄りのおばあちゃんを同居させた。
 彼は最初は結構この生活を楽しんだ趣きもある。玄関には柔らかい字だったが書道の先生に書いてもらって名を掲げた、「蒼瞑荘」。彼の好きそうな名である。
 周辺は落葉樹の林が多くて、彼はその環境が気に入っていたようである。私はよくそこに彼を訪ねた。
 今でも、その付近をとおると、私は胸がツーンとする。地に伏して泣きたいような気持ちになる。
           *
 ある日、彼は言う。
 「このごろ、哲学を勉強している。ショーペンハウエルって奴だがね、知ってるだろ、厭世哲学の。この人は厭世哲学というけれど、70歳も越えて若い娘に恋愛しているんだよね。バカにしているねえ(彼は私をのぞきこんで言った。つづけて)、
 僕は死の哲学を作ろうと思うんだ。多くの哲学や人生論が、すべて生きているは善い事だ、ということを前提に始める。これはインチキだと思うんだ。生きていることが良いことか、悪いことか、そのことに何の疑いも抱かず、それを肯定して、その前提に生の哲学を立てている。もし生きていることが無意味なのだときまったら、その哲学は全部崩れてしまうだろ? 僕は死の哲学を作りたいのだ」。
 「おい、おい。それ可笑しいんじゃないか。君が死の哲学を立てるのはよい。そうしたら、生の哲学ならいざ知らず、死の哲学を本当に立てたのなら、その哲学のノートや原稿を書く余裕はないぞ、その場で死んでしまうんじゃないか、はははは」
 彼とは、そんな会話を交わし、そして私は彼の住まいを辞した。それが最後であった。
 1941年(昭和16年)7月12日、彼の父から電話があった。「保行の行方が分からない」
 私はびっくりして別府に飛んで行った。しばらくして、彼が以前住んでいた下町の別荘でガス自殺をしている姿が発見された。
 呆然として私は彼の死体のそばに座りこんでしまったが、ついに耐えきれなくて大分の自宅に帰った。すると、彼から小さなノートが届いていた。彼の最後までの日記であり、また私への遺書でもあった。
 私はそれを読んで泣いた。大分川のほとりに行って、川辺で泣いた。一夜泣き明かした。水辺に遊ぶかもめの姿が今も目に焼きついている。現在、元・西鉄グランドホテルが建っているところである。
           *
 彼はその小さな手帳に「紫荊」という名をつけていた。読み方は「はなずおう」というのだそうだ。弱々しい花びらが彼の心を引きつけたらしい。辞典を引けば「花蘇芳」という正字が別にあるのだけれど、彼は「紫荊」という字にこだわっている。私のひそかな憶測だが、その字を「しけい」と読んで「死刑」を連想していたのではないか、とさえ思う。彼は彼自身を死刑にしようとしたのである。
 彼の遺書をかいつまんで紹介すればこうなる。「人間の生というものは感覚的なものである。そして感覚は快なるものを良しとする。そして快なる感覚は人を罪に誘い込む。感覚も快も罪ではない。しかし、それを肉に持つ私自身は、それを契機として罪を犯してしまう。友よ、私は死ぬことによって、私の罪を消そう、赦して貰おう、というのではない。ただ、一刻もはやく、罪の生にピリオドを打ちたいだけなのである。
 友よ、今、死に臨んで、君が冗談のように言ったあの言葉が、私の心に、あいくちのように刺さる。まさしく君の言うとおり、死の哲学が完成したならば、『その場ですぐさま死なねばなるまいね』。でも、私は今、不思議に幸福感に満たされている」。
        *
 私はそれまで軟弱な文学青年であった。しかし、その時から死と生の問題に思いをひそめ、死からの呼び声におびえながら、それからの解決を求めた。父が信じ、伯父が信じたイエス・キリストに救いを求め始めたのである。
 しかし、そのイエス・キリストを体験するまでに3年かかった。福岡刑務所の独房の中に於いてであった。1944年11月23日のことである。
 最近、奥山実先生の「芥川龍之介」の評論を読んだのである。奥山先生が指摘する芥川の深刻な内面史に、私が前述した荒巻保行の魂の面影を二重写しに見た。私は深い溜息をついた。奥山先生の芥川観は荒巻保行にそっくりだと思ったのである。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2008-02-19 14:04 | 日岡だより
<< No.321 一羽のすずめ 2... No.319 祈祷の秘訣 20... >>