No.319 祈祷の秘訣 2008.2.10

祈祷の秘訣

 今回は「祈祷の秘訣」などと大仰にタイトルをあげたけれど、実はざっくばらんに気軽に書きたいのです。祈祷についての本は山ほどある。有名な本はE・M・バウンズの「祈祷の目的」でしょう。この本の初版は1925年(大正14年)、名著です。同じ著者の「祈祷の力」も有名です。このバウンズの本には祈祷の英雄というか、祈りの鉄人というか、そういう人たちが山ほど出てきて、私たちを発奮させるどころか、気落ちさえさせる。
 知る人ぞ知る、祈りと瞑想の人だった桜井信市先生が夜行列車に乗っていて、この本を読んでいた。一夜、8時間祈っていて、まだ祈り足らないと泣きながら部屋から出てくるような凄い人物の記事が出てくる。さすがの桜井信市先生も「これはたまらん、バウンズの奴、くたばれ」と、その本を列車の窓から投げ捨てたと言う。今と違って窓ガラスの上げ下げができる汽車ポッポの時代だ。桜井先生一流の逆説的身体表現だが、その気持ちは私にはよく分かる。
 「ジョージ・ミューラーの祈り」という、あの2千人の孤児を養ったジョージ・ミューラーの伝記はよい本であるが、その彼の祈りの実際についてだけ編集した本があった。これもよかった。10年ほど前、早天祈祷会でこの本を毎朝少しずつ朗読してみなさんに聞いてもらったことがある。
 「祈りのハイド」という本がある。18世紀から19世紀にかけてインドにつかわされたアメリカ人宣教師です。彼は本のタイトルのとおり、祈りの人であった。私が注目させられたのは、彼がある時、祈っていて神様から「笑いの霊」を与えられたという。彼は、我らの神はイサク(笑い)の神であると言い、又、箴言8:30によって、神の家の子は「毎日喜び、いつも御前で楽しむ」のは当然である、と言っている。このように、祈りが高揚して「笑い」になることがある。一種の瞑想に近づくのである。
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 今朝(11月17日)、私は3時に目が覚めて、事務室でちょっと仕事。4時になって祈るために会堂に行きました。講壇の前のカーペットに坐ると、思わず笑いが込み上げた。「ワッハッハハ」。私は楽しんでイエス様に申し上げたことです。「イエス様、ありがとうございます。実は昨日はいろいろあって愉快ではありませんでした。体も疲れ果てて、ご承知のように早く寝てしまったのです」。「そうだったね、だから今朝は早く起こしたのだよ。どうだ、嬉しいだろう」。「はい、嬉しいです、しかし、キノさんが家出しているかもしれません。もう冬も近づき、寒くなりました。金もないはずです。どうしているでしょうか」。「大丈夫、安心しなさい」。笑いは対話の祈りさえ生むのです。
 キノさんはK君の女房である。昨夜、私はK君の家に行って酒に酔っぱらって寝ているK君を叩き起こして、「なんということだ」と叱った。事情はくわしく書けないが、彼は酒を飲むどころの筈ではなかったのである。しかし私は思いなおして、彼のうちにある酒の悪霊に向かって、出て行くよう命じたのだが、その時、キノさんは家にいなかった。たぶん、彼女はK君に愛想をつかして家出をしたなと思った事です。彼女にはしばしば家出する悪癖があります。
 ところで、私が「ワッハッハ」と笑って祈っているうちに5時になった頃、そのキノさんが会堂にはいてきたのです。いつもの早天祈祷会の時刻よりは早い。「やあ、あんた、居たのかい。ようもまあ、家出せんかったなあ、よかった、よかった。ワッハッハハ」、私は笑った。そこへ中野兄が来た。彼も長いこと早天祈祷会に来ていなかった。昨日、妻から厳しく言われたらしい、「明日は必ず早天祈祷会に出なさいよ、祈ってあげるから」と。実は最近、中野兄は体が異常に弱っている。医者に行っても、はかばかしくない。病気はますます悪くなるのである。そういうわけで、彼も今朝は重い足を引きづって来たのであろう。そこへ妻もやっと入ってきた。やっとと言っても、ちょうど早天祈祷会の定刻、午前5時半である。デザイナーの緒方兄も来た。
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 昨日の早天祈祷会は私たち夫婦に相良姉がきただけの3名のさびしい祈祷会だったが、どうしてどうして、淋しくなんかはない。ちょうど、ジョン・R・ライスの「祈りの秘訣」という本があったので、その一頁を読んだ。弱冠20歳代のジョン・ライスが、日照りで苦しむ農村地帯の教会で集会をもった。祈った。「神よ、24時間以内に雨を降らせてください」。その祈りに神様は答えてくださった。数十日にわたるカンカン照りの枯れ果てた作物の上に、豪然と雨が降り注いだのである。「そのような雨を今、今朝のこの祈祷会に注いでください」と、私は心に祈ったことである。
 雨といえば、雲のことを私は思った。実は、昨夜、妻と話し合ったことの一つに、「雲消し」のことがある。以下の記事を読むクリスチャンの方々は怪訝の思いがするだろうし、あるいは異端ではないか、悪魔の所業ではないかと、つまずきはしまいかと心配もするのだが、
 この際公開すると、仏教詩人の坂村真民さんは「念ずれば花開く」と言うが、私は「念ずれば雲消える」という。空を見上げて、じっと念じていると、雲が消えてゆく。これはニューエイジの人たちの気に入る事だろうと思う。聞いてみると、驚いた。妻は四十年も前から面白半分に、こっそりやっていたという。そのうちに雲を増やすことすら覚え、そして雲を増やしているうちに神様からの言葉を聞くようになったという。そうしたことのおかげで、「あの貧乏や困難で苦しんだ時代を乗り越えて来れたのです」と妻は言う。あの頃、信仰一筋はいいが家庭のことは全然顧みなかった私、頭をかいた。
 この雲消しはやってみれば簡単である。誰にもできる。聞いてみたら、先日これを教えておいた中野兄も「出来ました、ちゃんと出来ました」という。何事も尻込みしやすい中野兄には珍しく、思い切って早速ためしてみたものである。これを汐になんでも実行してみる進取の気象に富んだ人になるであろう。ともかく、この雲消しの練習は精神集中のよい訓練になる。
 実は40年前のこと、先師手島先生に、「先生、祈祷の秘訣はなんでしょう」と質問したら、先生は言下に「それは、君、精神集中だよ」とおっしゃった。神学的な答えを期待していた私は、あまりにキリスト教離れのした実技的な答えにびっくりしたことを覚えている。
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 「祈祷の秘訣」というような本にはいろいろな実例、奨励が載ってはいるが、「精神集中」などという奨めは案外少ないと思う。しかし重要です。例えば、「熱心に祈れ、長く祈れ、飽かずに祈れ、徹夜で祈れ、断食して祈れ、異言で祈れ」、こうした祈りの奨めは、実際上の結果としては、精神の集中を生むのです。
 アブラハムは天の星を見、イサクは野を歩きました、このイサクの個所で、英訳聖書はしばしば「瞑想する」と訳しています。我らの永井明先生が常にご励行なさる「ウォーキング・プレアー」(歩行祈祷)が、それです。これは実技的に、しかも割合に容易に実行出来る瞑想法と言えます。(散歩が欝病によい所以です)。
 歩行祈祷のよいのは、座りこんで何もしないで祈るのと違い、体を動かしながら祈るという特徴です。これは、生活上のあらゆる仕事、活動のさなかで、祈ることができるという発見でもありますし、またその訓練でもあります。
 森や野や密室において、独りの祈りを試みることは良いことです。しかしやってみれば分かりますが、密室はよいのですが、森や野という野外の祈りは案外難しい。気が散るのです。
 ともあれ、こうした野外や、密室において、歩行の祈り、ワッハッハの呵々哄笑、念じて雲を消す。すべてこれらは一種の精神集中法です。祈祷の秘訣の一面とも言えましょうか。(一部旧稿)《く》
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by hioka-wahaha | 2008-02-11 16:48 | 日岡だより
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