No.318 声をあげて祈ろう、機嫌よく笑おう 2008.2.3

声をあげて祈ろう、機嫌よく笑おう

 快活な人はいったいに声が大きい。しかし、なんでも声が大きければ良いというわけではない。「朝はやく起きて大声でその隣り人を祝すれば、かえってのろいと見なされよう」と旧約聖書の箴言にあるくらいだ。また「心の痛める人の前で歌をうたうのは、傷の上に酢をそそぐようなものだ」ともある。そういう場所や場合はわきまえねばならないが、しかしやはり快活な大きな声は気持ちのよいものである。
 しばしば、低い声でお通夜の挨拶のような祈りをする人がある。けっして批判ではない。悲しい時、苦しい時、さもあろうと思う。
 確信がない時も、そうである。とは言え、確信のない時こそ、なおさら大きな声で祈ってみてください。そう言う場合、しばしば神様に詰め寄るような尻まくりの祈りになる。せっぱ詰まった危機的状況下では、それも仕方ない。ほかならぬ私もそうであった。
 しかし、いつもそんな風では、息が切れてしまう。やはり楽しい明るい声の祈りをしたいものですね。
 あなたの祈りについて、お聞きしたい。あなたは家の中などで一人で祈るとき、声を出しますか、どうですか。私は思う。一人で祈るときでも、声をあげて祈るほうがよい。
 イエス様が祈って居られる様子を見て、弟子たちが「主よ、私たちにも祈る事を教えてください」と言ったと聖書にある。弟子たちにはイエス様の祈りが聞こえていたのである。またゲッセマネでのイエス様の祈りは、まさに主の孤独な祈りであったが、その時、はるか離れた弟子たちにもイエス様の祈りの声は聞こえたのです。イエス様の祈りの声はかなり大きかったに相違ない。
           *
 先日の祈祷会で、私は言った。「寝るとき、床の上で声を出して祈りなさい。寝るときの祈りは朝の祈りの先取りです」。
 ところで、あとで考えた。実は私自身、恥ずかしいことに寝る前の祈りを、それほど忠実に声を出して祈ったことがない。
 そこでちょっと決心した。その夜、私は大きな声を出して祈ったのである。隣のベッドで妻が聞いていたので、やや照れくさい、そんなことでは牧師として落第だと思うが、私は元来こうした恥ずかしがり屋。こういう時、慣れないことをするときは必ず照れてしまう。
 さて、その次の日の朝、目が覚めると、とたんに布団のなかで思わず祈りの声が出た、そして叫んだ、「ハレルヤ!」。
 それから、隣のベッドの妻に「ハレルヤ!」と声を掛ける。そして機嫌よく「ワッハッハッハ」と笑ったものだ。なぜ笑うのか、格別に理由はない。不思議に機嫌がよかったのだ。
 これは発見だ。なるほどねぇ、その前夜の祈祷会で自分が言ったことではあったけれど、こいつはいいや。寝る前に声を出して祈るのはいい。ほんとうにいい。それなら、そうだ、あれもそうだ。
 たとえば食堂や電車の中で、弁当を開くとき、食前の祈りをしますね、これもやはり大きな声で祈るのがよいだろうな。神様は耳が遠い訳ではないから、声を出さなくても私たちの心の祈りを聞いてくださる。それは確かだ。心の中は全部お見通しだから。
 だからと言って、神様にとって、大胆に胸をはって大きな声で祈るクリスチャンの姿は、やはり大いに嬉しいに相違ない。これは人に見せるために、路傍に立って敬虔そうに祈るパリサイ人とは全然違うんだよね。
 さて、先の朝の経験のあとで主は私に言われた。
「あなたは、昨夜は声をあげて祈ったら、さっそく今朝は、起床してすぐ祈ったね。そしてすぐワッハッハッハと笑ったよね。陽気な声で私を賛美もしたね。お前にはよい体験だった。同じように、私のこと、イエスのこと、信仰のこと、教会のこと、なんでも率直に、どこででも、誰にでも、明るく話せる人になりたいと思わないかね。そう思うなら、いつも声をあげて祈っていなさい、必ずそういう人になれるよ、ね」。
           *
 数年前、カナダのトロント空港ヴィンヤード教会に行ったことがある。その時、聖霊の働きを受けて、笑った、笑った。その後、フレイソン先生が来て、日比谷の公会堂で、また笑った、笑った。
 笑えない人から見れば、異様であるし、そこで非難の声もあがる。無理もないと思うが、当時、世界中、トロント・ブレッシングと言って、世界中のキリスト教界で論争の的になった。ともあれ、
 聖霊様の直接的な働きでなくても、笑うことができたら、やはりそれも良いと思う。
 みなさん、笑ってみませんか。おなかを抱えて、呵々哄笑してみませんか。そんな阿呆なマネできるかという人が多いでしょう。
 しかし、幼子のような気持ちになって、笑っている人のマネをしてごらんなさい。最初はぎこちない笑いでも、それを続けているうちに次第に笑えるようになるものです。
 もちろん、決して笑うことが信仰ではありません。そして、あんな風に笑えなくても信仰を持っていさえすれば、大丈夫、天国へゆけます。
 しかし、信仰を持っていて、その上に愉快に笑えたら、更に快活なクリスチャンになれて、伝道もしやすいし、快活な良い証し人になれます。
 また、信仰はないけれど気軽に「ワッハッハッハ」と笑える人がいて、その人がクリスチャンになるなら、もっと良い笑いが出来るようになります。
 天国ではニヒルな笑いはないし、滑稽な笑いというものもないんだよ、と主はかつて私に教えてくれましたね。
 聖書に「心に信じて義とせられ、口に言い表して救われます」とあります。心の中でイエス様を信じさえすれば、行いはなくても神の国の国籍を与えられ、死んだら天国に行けるということです。
 その人の信仰は確かなのです。しかし、この地上に生きている間、クリスチャンらしい快活で勝利の生活を送ることが、難しいのです。
 そこで、お奨めします。信仰の言葉を口に出して言いなさい。それを「告白」と言います。罪の告白ではありません。信仰の告白です。すると、てきめんイキイキ人間になれます。
 声を出して大胆に祈るのです。生活が変化します。言葉でも笑いでも、大きく明るい声で周辺に撒き散らしましょう。
 そうすると、あなたの表情も行動も変わり、周囲に影響を与えるようになります。しかも、心→言葉→行為という原則によって信仰は向上します。
 イエス様の十字架を心に信じて義と認められ、信仰を口に言い現わして生活が救われ、体の行動が変わって、サタンと世に勝利します。
 どんな困難がやってきても「ワッハッハッハ」と笑って乗り越えることができるのですよ。《く》
       (1996年3月24日週報再掲載)


癒しのテレホンを聞いてください
 
 最近のテレホン聖書は5分メッセージを減らして3分にし、以前お送りしていた「癒し」の祈りを最後にしています。
 もう10数年も前に、小橋 護 先生から、癒しのテレホンを始めたらどうですか、と勧められたことがあったのです。それがきっかけでした。
 先生ご自身、私の電話の祈りで頭部の後遺症が癒されたご経験があったからです。
 そこで、やっと腰を上げて始めたのが、このテレホン聖書でした。あちこちの方の病気や痛みが癒された、また朝会社に出かけるとき、この電話を聞くと気分がすっきりする。あるいはイエス様を信じる信仰がはっきりして、長らくさぼっていた教会に毎週出席し始めました、などというご報告を頂いています。
 ちなみにこの「教会に毎週出席しはじめた」というお証しを初め、殆どのかたが当教会の信徒諸兄姉ではないのです。他教会の一般聴取者の方々なのですが、どうぞ、お近くの教会に出席されるようお薦めします。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2008-02-05 15:29 | 日岡だより
<< No.319 祈祷の秘訣 20... No.317 マーラ・モウの話... >>