No.313 不戦時代を迎える 2007.12.30

不戦時代を迎える

 2007年で世界の旧時代は終るのではないか。そして2008年の新時代を迎える。それは戦争の無い時代である。
 この1月に私は雑誌「ハーザー」に熱心に非戦論ないし非戦主義を書いた。しかし今、私は「不戦時代を迎える」と書きたい。なぜか、戦争はもう時代遅れであると言いたいのである。
 いわゆる戦争というものは、中近東あたりの小国間の近辺では小競り合いも起るだろうが、大国間においては、原爆使用を招きかねないような火遊び戦争を起すバカなことをすることは、もうあるまいと私は思うのである。
 なぜか。アホらしいからである。原爆をぶっ放すような戦争の結果は何が残るか、戦端が切られれば、互いの国がほとんど同時に原爆の投げ込み合いであろう。そこには、荒れ果てた爆撃の跡地と、意志阻喪した国民が残るだけである。
 日本がどこからか原爆でも落されれば、東京は吹っ飛び、天皇さんも政府機関も無くなってしまう。そんな始末になるのである。
 今では原爆くらいはどこの国でも造れるのではないか。原爆の被害はひどい。その戦争の様子をニュースで聞けば、戦争国の国民たちは一斉に戦意を失い、呆然とするであろう。
 愛国心などという小賢しい意識は捨ててしまえ。この地球を守るためには、もう国家間の戦争はまっぴらだ、という世論が起るであろう。
 日本で明治維新の時、廃藩置県、侍は廃刀令で刀を捨てた。同様に地球表面から国境を消し、軍備を捨てよう。もう戦争は止めだ。これからは、各国とも戦争をしない約束をしよう。こういうことになるだろう。
 こうしたことは、まだ、この世界では夢物語りであろうか。私のいうことは理想主義者のたわごとに見えようか。しかし、時代の変化はガラリと来る時がある。明治維新のように、急激に起るだろう。
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 すでに現時点、世界はそういう時代になってきている。みんなが、気がつかないだけである。
 今、突然、どこかの大国が、中国でも、インドでも、メキシコでも飛行機や軍艦で攻め込み得ると思いますか。できません。映像や言語の交信機器の発達した現今、それらの暴挙はどこの国民にもリアルタイムで丸見えですから。
 全世界の全住民の見る前で非道な軍事行動は出来はしません。何よりも自国民自身の不審、反感を買います。自国民の愛国心を期待できなければ戦争はできるものではないのです。
 大体、明治、大正、昭和前期のような愛国心を、現代の国民に期待出来ましょうか。愛郷心に類した愛国心は残りましょうが、命をかけて国を護るなどという愛国心の必要は無くなる時代が来るのです。
 昔の日本で、侍が刀を抱いて敵国(つまり今で言えば隣の県です)に斬り込むようなことを現代に想像することはまるでマンガです。即近未来、隣国同士は、今の隣県同士のような感じで、お互い気軽な国々になるでしょう。
 何故なら、お互いにパスポートも不要、国境もあって無きがごとし、現在の県境のごとし。自由に行き来して、同じ流通貨幣を使って買物をする。多少不便でも、言葉も通じる時代が来るでしょうから。
 第一、結婚が自由で、人種・民族の差が曖昧になる、要するに地球は一つになりつつあるということです。
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 少々、急進的に書き過ぎたでしょうか、そこまで行かないにしても、戦争は出来ない時代になりましょう。戦争をするような不経済なことはしたくない、ということです。戦争は無駄が多すぎるし、後始末にも苦労するのです。不経済です。
 戦争のような馬鹿なことをするより、話し合いで決めた方が、安上がりだ。少々の損をしてでも、鉄砲、爆弾を打ち合い人の命まで損をして、無駄な犠牲は払うようなことはしたくない。
 昔はなぜあんな無駄な戦争をしていたのだろう。いいえ、当時としてはまだ世界社会は未発達、やむを得なかった仕儀でした。残念だが。
 内村先生や、その亜流の私の非戦論などは、そのことを知らずして、この少し先の時代、つまり不戦の時代を見越していた結果では無かったかと言えましょうか。
 今、ようやく、その時代が来つつある。それをあの当時、直感的に勢い込んで、早手回しに言ったに過ぎなかったのか、今そのことに思い当たるのです。


クリスマス体験と平安感覚

 先々週、東京方面を巡った時、メッセージとして最も語りかったことは、この標題の「クリスマス体験と平安感覚」でした。残念ながら、集会を持つことが出来なかったので、特別にこのことを強調する機会がありませんでした。
 クリスマス体験と私が格別に言うのは、クリスマス行事を共に持ちましょうなどということではない。各自、イエス様を各自の魂に迎え入れる体験を持とうということです。
 「各自の心に」とは言いません。「各自の霊に」とも言いません。「各自の魂に」と言います。何故か。心では軽すぎるし、霊では硬いのです。なぜか。
 霊においてイエス様を受け入れることは最も望ましいことですが、これは聖霊様によって起る事です。各自の意志によるのではないのです。
 心において、イエス様を受け入れることは誰でも一応出来ることですが、しかし、一旦自分の心で受け入れても、また自分の心でイエス様を捨てる人が起るのです。それに比べ、
 魂で受け入れることは、かなりの意志力を要する。聖霊様の助けが要る。そばから、聖霊様の助けを求める、他者の援祷も必要である。
 教会で、牧師や先輩信徒の信仰の勧めや、バプテスマを勧めるのは、この点で有利なのである。
(ちょっと説明すると、心は人間の精神の最も表面、その下に見え隠れするのが魂である。深い意識である。その底に潜むのが霊、自分でも意識できないし、見えない。しかし、当然存在するはずの、その人自身の自我、実存、である)。
 もう一度言うと、私のいうクリスマス体験とは教会のクリスマス礼拝や、祝会に出席することではない。あなた自身がイエス様の誕生をあなたの霊魂に経験することある。
 しかも、その日以後、毎日でも改めて、自分の中にイエス様が生き続けておられることを再確認すること、これが「毎日がクリスマス」と言い続けてきた私の意図である。
 1948年4月1日前後のある日、私は部屋の片隅にイエス様の影像を見た、「これは私の空想力の所産であって、決して神の幻ではないぞ。騙されるな、騙されるな」、と私の知性は疑ってかかっているのだが、その間にも、その影像は私に迫ってきて、遂に私の胸に飛び込んで来たのだ。「あっ、イエス様だ」、その感覚を拭うことは出来なかった。
 そしてその翌日、目が醒めて、ふと家人に小さな小言を言おうとしたとき、内なる主は「ハハハハハ」と笑って言われた、「おい、おい。一晩寝たら私は居なくなったと思うのかい。私はずっと、お前の中に住んで居たんだよ」、そのお声は私の魂を貫いた。今もその主の笑い声を忘れる事は出来ない。
 その時、即座に私は聖書の言葉を思い出していた、「われ更に汝を去らず、汝を捨てじ」(ヘブル書13:5文語)と。これが私の第二次コンバーション(回心)であった。それ以後、主の内的臨在と平安を失ったことはない。
 今回は荒っぽい文体で思いのまま書きました。読みづらい個所や欠陥も多かろうと思いますが、読み直す余裕もありません。お許し下さい。末文になりましたが、先生がた、諸兄姉の上に、越年と年始のご平安とご祝福を祈ります。(釘宮生)
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by hioka-wahaha | 2007-12-31 20:17 | 日岡だより
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