No.308 信仰成長の5本の指 2007.11.25

信仰成長の5本の指

 「信仰の成長」。言い替えれば、信仰を拡大、増殖、強化、深化すること。これを達成する5つの階段を5本の指にたとえてみましょう。
 第一の指は親指。これは「キリストにある絶対の赦し」です。神様はキリストにあって私を徹底的に赦される、ということです。他にも多くの大切な教理がありますが、まず、この「絶対の赦し」を私のものにしなければなりません。そのためには、第一にこの教理を理解し、認めることです。「知る」とか「認める」とかいう言葉は、パウロの書簡では非常に重要であります(第一コリント2:2、ガラテヤ2:16参照)。
 「赦される」ということは、「義と認められる」ということです。罪人であるのに、義人と見做(みな)してくださり、到底、天国市民となり得るはずもない人物を、イエス様の十字架の死の故に「天に国籍がある者」(ピリピ3:20参照)として認めてくださるということです。
 このことを、あなたがハッキリ、またシッカリ、あなたのものとして掴むならば、あなたは魂(心)の上に驚くべき自由を得るでしょう。この自由感覚を持っていないクリスチャンが案外多いのです。
 この信仰を、まず前述したように知的に認めることが大切です。次の秘訣は「告白」です。大胆に「私は救われている、イエス様は私の主です」とノートに書き、声を出して、告白しなさい。かならず、いつか、この信仰があなたの確信となり、あなたの罪が一切ゆるされ、あらゆる心の困難から解放されてしまっていることを自覚するに至るでしょう。
 この信仰が聖霊経験、即ち「回心(コンバーション)」として、一気に与えられることがあります。内村鑑三先生のいわゆるコンボルションということで、くわしくは石原兵永著「回心記」(新教出版社発行・絶版)を読んでください。アウグスチヌスやジョン・ウェスレーなどの体験に見られるもので、ブルンスという人に言わせれば、例の少ない体験だそうです(「回心の前後」新教出版社発行・これも絶版)。
 この回心という体験は、心理学的に言えば禅宗の悟りなどにも似ています。ウイリアム・ジェームスの「宗教経験の種々相」という名著を読んでください、幾多の実例が出ていたように思います。
 この経験が1回限りと思っている方もいるし、2回だけと思っている人もいるし、いや何回でもあるべきだと思っている向きもあります。このことは又、別の機会に述べます。
 さて、「どんな罪を犯しても赦される」と申しましたが、ただ一つだけ許されない罪があります。「いかに尊いイエス様のあがないの力であっても、この私の罪だけは赦されないだろう」と思う罪です。
 なぜなら、せっかくのイエス様の十字架の御業の賜物を、その人にあてはめようとする聖霊様の働きを拒否することになるからです。いわば、救いの血汐のパイプを自分のほうから栓をして流れを止めてしまうからです。人殺しよりも、神様やイエス様の御名を悪しざまに呪ってけがすよりも、この罪のほうが重いのです(マタイ12:31、32)。
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 第二の指は人差し指です。これは「聖霊による感動」、ひいてはその力を体験することです。前記の回心経験は、自動車で言うなら発進前のエンジン駆動に似ています。ニュートラルにおけるエンジン駆動にギヤがかかると、第一コリント12、14章にある「御霊の賜物」と言う諸能力の発動が始まるわけです。預言、癒し、異言、異言を解く力、等々です。又、使徒、預言者、牧師、教師等の奉仕の役目の賜物です。
 第一の赦しの信仰は人間のがわの決断によって始まることが多いのですが、それに聖霊の感動が加わると、その信仰が磐石になります。逆に、折角いただいた筈の聖霊の感動が一時の夢みたいに消えかける時、あるいは消えてしまったと失望することも、時おり起こる現実ですが、その時には第一の赦しの信仰に立ち帰るのです。どんなに、失敗し、絶望した時にも、第一の絶対赦しの信仰に立ちもどれば、必ずイエス様にある平安を得、そこに憩うことができるのです。
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 第三の指は中指、「聖霊による品性の改変、向上」です。これは多くのクリスチャンが最大、最高に願うことです。ガラテヤ5:22、23の聖霊の実は、その徳目の良い例です。
 ホーリネス、あるいは聖潔ということを教理の大きな標榜にしている教会や群れ、ないし教団があります。おおまかに言って、中田重治先生やバックストン先生の指導を受けた群れと言えましょうか、ジョン・ウエスレーの教えの系統を引くのだと思います。彼らの「新生・聖潔・神癒・再臨」という四重の福音のスローガンは今も活きています。
 これは第二の聖霊の感動・賜物と相互作用して互いに成長します。自分の品性劣悪さに失望した時には、第一の赦しの信仰が良き助けです。
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 第四の指はくすり指、「信仰向上のノウハウ」。信仰の道を守り進もうとする時に必要とする実際的具体的なノウハウです。例えば、聖書の読み方、祈りの姿勢、祈りの声、黙祷のときの雑念の処理、神癒祈祷、神様の声を聞く、断食の方法、等々です。
 こうしたことについて聖書には精しい説明や実例が案外少ないのです。多分、先輩から弟子や後輩へと実地承伝する要素が強い分野なのでしょう。パウロが「私の真似をしなさい」というのも、その意味が強いのでしょうね(第一コリント11:1参照)。
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 第五の指は小指、「世に生きるクリスチャンとしての生活のノウハウ」です。
 旧約の「箴言」や、使徒たちの手紙の大抵終りの方にある「生活訓」がこれです。これを信仰と聖霊の助けにより適確に実行するならば、それぞれのタラントや賜物に応じて、家庭において、職業において、社会生活において、比類なき地上的成功を得ることも困難でないでしょう。
 さて、総括しますと、親指は他の4本の指に向き合っていて、その各指と物を掴んだりする「協力関係」にあります。このことは、次のことの比喩にちょうど良いのです。「すべてを赦す神様」を信じる第一指の信仰は、第二指より第五指までの、その分野に起るすべての失敗や背き、過失を赦し、元気を回復とさせ、尊い役目を果たさせます。
 もう一度、握りこぶしを作ってみましょう。親指で人差し指と中指の2本の指を上から押えると、握る力が更に強くなるのです。これは第二指、第三指の感動と品性の要素は、特に第一指の絶対的赦しの信仰と相まって、強力な信仰を造る3本の柱であるということです。
 更に、握りこぶしをギュッと握りしめてみると、小指の力が案外に大きいことが分かります。第五指の世俗的ノウハウが信仰修錬に意外に影響します。地的生活の善悪・巧拙も信仰の成長に大きく関係します。
 最後に「手のひら」を見ましょう。これは「神様の愛」です。これは、すべてのものを握りこむ5本の指の根元です。これが無ければ、どの指も有り得ないのです。神の愛こそ、すべての力の根源です。信仰の成長は神の愛にはぐくまれてこそ可能です。《く》(1987.7.26の週報掲載の旧稿、1990年末の拡大宣教学院機関誌「マグニファイ」30号にも寄稿したものです)

〔古林三樹也先生からのご歓奨〕
先生から「世にも不思議なご案内です」と[註]つきのお手紙が来ました。「クリスマスが近づきます。このもってこいの時くらい本当の教会らしい《まじわり》の計画を持ちませんか、というお誘いです。急にこう書きましても、皆さんには何のことだか、分からないでしょうが、先生のご意見では、教会とは単に牧師が説教をし、信徒の諸兄姉が「アーメン」と答えて献金して帰るだけのことなら、本当の教会とは言いがたい。真にイエス様を愛し、イエス様がおっしゃったように信徒の皆さんが互いに愛し合い、親しく交わり、歓談(時にはケンカさえ)の中に、泣いたり笑ったりしている、そういう集会はできないのかと、(よくある教会の冷たい集会を想って歯ぎしりしながら、でしょうか)古林先生らしいお手紙をくださっています。そうした先生のこれまでの私(釘宮)宛てのお手紙を、最近南側の窓下に置いてありますが、読んで下さった方はいますか。「駄べり、笑い、少々ケンカになってもよい、ラーメンを食べて仲良しになった。そんな集会を自主的に始めませんか」、とおっしゃっているのです。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-11-27 18:18 | 日岡だより
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