No.307 神を求めること 神に会うこと 神と交わること 2007.11.18

神を求めること 神に会うこと 神と交わること

 最近、ある姉妹と話しているうちに、ついキルケゴールを持ち出してしまった。少々キザである。しまったと思った。お調子に乗ったのである。私のキルケゴール理解は雑なもので、今更、みなさんの目にさらすのは恥ずかしい次第なのだが。
 私は、「死に至る病」を一度読んだだけだ。それも若い時だったから、「ああ、死に至る病とは絶望のことなんだな」と最初の一行だけで、分かったような気がしただけのことだったのだ。
 しかし、その後、キルケゴールに関するものを読むと、何だか、もう少しは分かったような気がしてきた。そして、不思議にこの哲学者を私の身近に感じたものである。
 私の思うのに、彼は哲学者と言っても並な哲学者ではない、クリスチャンとして、ちゃんと正鵠を得ているし、その信仰をしっかり目途としつつ神学ではなく、哲学を叙述するのだから、こんな哲学者はほかには無いと私は思う。
 こうした感じは、内村鑑三先生がそうだったらしい。鑑三先生はキルケゴールを、さして読んだことは無かったのではなかろうか。そのくせ、先生はしきりにキルケゴールを持ち上げる。その反骨振りと憂鬱な容貌が気に入ったのかもしれない。彼を無教会主義者とまで言うのは贔屓の引き倒しだと思うが、一つは鑑三先生のデンマーク好きが、そうさせるのだろうか。
 そう、キルケゴールはデンマークの人。アンデルセンと同時代、アンデルセンより遅く生まれ、早く死んだ。
          *
 キルケゴールの哲学を語ろうとすれば、彼特有の彼の用語を羅列するだけで、その全容が伺えるような所がある。
 今、一応それを私なりにあげてみると、本の名前として前述の「死に至る病」、それから「あれか、これか」、「反復」等々。その他の用語として「単独者」、「瞬間」、「キリストとの同時代性」、「実存」などです。
 人生において「あれか、これか」の選択に悩み、いい加減に出来ない深刻人間はついに絶望する、私の親友A君もそれで自殺した。私はその余波を今も受けている感じがする。(今の私は陽気に見えるだろうが、内には深いペシミズムがある。後述のアフリカ伝道のアルバート・シュバイツアーも同じようなことを言っている。真実に生きようとする人間はその本質に悲哀を持たざるを得ないと私は思う)。悲哀の極は絶望、絶望は死に至る病だ。
 人間は永遠に生きられない。その人間が永遠にあこがれる、鮭が生まれ故郷の源流に帰ろうとするように。その永遠の生命への回帰志向、それが宗教の起源だ。それは長い求道模索から始まる。そして、やっとなつかしい河口に踊りこんだ時の喜び、それが新生体験である。
 ところで、この新生体験は永遠の神に有限の人間が出会う事だから、本来は容易な事ではない。神の前に立つ時、その人は「単独者」として立つ。孤独な罪の意識に苦しむ。その彼が、永遠の聖なる世界から、垂直に降りて来る福音を受容する時、それをキルケゴールは「瞬間」と呼ぶ。
 同じような体験を持つ人は、このキルケゴールに甚だしく共感するだろう。それはイエス・キリストと共に死に、イエス・キリストと共に復活するという体験である。これをキルケゴールは「キリストとの同時代性」と言う。
          *
 神は永遠にして義と愛の神、この方を人間はしきりに求める。そう簡単に会える筈もない至高なお方、このお方が卑しい人間を逆に求めてくださる。この逆説的な〈人を求める神〉に出会う時、人は本当の人になるのである。
 そして、この神に目覚めた人間は、更に命の川を遡って源流に辿りつこうとする。まさしく、〈人が更に人になろう〉とする、その動的自我こそ、「実存」である。
 バルトやツールナイゼンが「山上の説教」を出したのは、キリスト教史上画期的なことではなかったかと思う。トルストイが真っ正直に「山上の説教」に挑んで頭を岩にぶっつけて死ぬような目にあったが、トルストイならずとも真面目な魂がキリストの福音を脇見しながら「山上の説教」に直撃すると自爆的悲劇に会うのである。
 「主の祈り」にあるように、神の御心を地上に生きる私の生活に活かそうとすれば、前記の自爆的矛盾に陥る。先に述べた「更に命の川を遡って、源流にたどりつこうとする」実存者が、そこで苦悩にあえぐ。血を吐く思いをする。生の不安、不条理の亀裂がそこにある。
 しかしキルケゴールは、その亀裂をふさぐキリストの十字架の福音を発見した。「あれか、これか」の矛盾を本当に解決する道は、キリストとの同時代性の道しか無いのである。
 多くのクリスチャンは実際体験として、この関所を通過して来ているはずだが、それをはっきりコトバにしたのは、キルケゴールの功績ではなかろうか。と、しろうとの私は思う。
          *
 たしかに、私はしろうとである。このように書き進んできて、どうも「自分」を語りすぎている感じがする、ご容赦願います(笑)、これは田崎先生の文章の真似です。キルケゴールの用語を拝借して、自分の幼稚な神学を語っている感じですが、このまま続けます。
 「反復」という言葉には、こんどキルケゴールの文献を読んで、初めて気づきました。今までの私が知っていたキルケゴールには「反復」という思想はなかった。これは大変な無知だったと思います。
 罪を犯さざるを得ない地上の世界で、神の恩寵によりキリストとの同時代性を把握した時、さように活かされた彼は、そのキリストとの同時代性の生き方を彼自身で反復せざるを得ない。あきらめず、怠らず、持続して維持する、その反復の精神機能こそ、活きている信仰です。
 ここで、最後に私の言葉に帰りたい。この反復機能とは、持続する信仰告白です。信仰の言葉を「自分自身に言い聞かせる」作業です。
 キルケゴールから逸脱するかもしれませんが、私流の「自分自身に言い聞かせる」方法に従い、明るい陽気な積極的前向きの信仰の言葉を告白し始めると、あのペシミズムは軽く吹っ飛ぶのです。
(アルバート・シュバイツァーは言いました。「私はこの時代に対して、認識においてはペシミスト・悲観主義者、希望においてはオプチュニスト・楽観主義者である」と)。
           *
 ここでちょっと、いわゆる「瞑想」について書いておきたい。瞑想とは文字どおり瞑目して無念無想になることだと多くの人が思っている。そうした精神制御方法を目指しているうちに、いわゆる瞑想法、つまり呼吸法や健康法、暗示法、催眠術などに堕ちてゆく。
 本当の瞑想はその程度の事ではないのだ。「真の瞑想」とは神と交わる工夫である、と言いたい。(工夫というのは、実におどけた用語ですが、これは賀川豊彦先生から習った用語です)。
 短絡的ですが、結論を言います。私を愛してくださる神様をちょっとでも思い出したら、その場ですぐ感謝し、喜んで嬉しくなって「ワッハッハ」と笑いましょう。できるだけ長い時間、何度も笑いましょう。
 ちょっとヘンでしょうが、私流の初歩的な「神との交わり」の方法です。こうして命の源流にさかのぼって行こうと思います。これは、小器の私にとって易しい、最適の道なのですよ。《く》(2000.9.11.旧稿)

〔あとがき〕
先週は、在天者祈念礼拝のあと、予定どおり別府市背後地の十文字原を抜けて、日出の別府霊苑の教会墓地に行き、墓前礼拝を開いた。悠然たる景勝地である。敬虔なる礼拝のひと時を過ごし得て、感謝でした。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2007-11-20 13:08 | 日岡だより
<< No.308 信仰成長の5本の... No.306 平和憲法と再軍備... >>