No.305 ハドソン・テーラーの「雅歌講解」 2007.11.4

ハドソン・テーラーの「雅歌講解」

 これは珍しい本です。聖書の中で「雅歌」は「神」という言葉が、一字も出て来ないことで有名です。もう一つは、一種の恋愛歌だということです。それが、聖書の中にちゃんと地位を占めている。なぜか。神は私たちを愛し、私たちが神を恋い慕う心の働きはまさしく、大恋愛中の大恋愛だからです。
 さてこの本の著者が、これまた珍しいのです。ハドソン・テーラーという人は近世における中国伝道の大立者です。忙しい宣教師としての働きの中で、こうした講解書を書くということは容易ならぬことです。
 それにしても、なぜ「雅歌」なのでしょうか。マタイ福音書とかローマ人への手紙とか言うのなら分かりますが、旧約聖書中の余り人の目にはとまらない「雅歌」を選ぶとはどういう訳でしょう。
 ハドソン・テーラーは中国の海岸部というか、都市中心の伝道を後回しにして、敢えて中国内地伝道、つまり奥地の文化未開の地方に出て行って伝道した人です。そのさなかに、配下の一宣教師の聖霊経験を聞いて、自らも謙遜にその恵みを求め、そして与えられます。その聖霊の恵みを得て後、この「雅歌」の霊的深みが分かるのです。
 かくして、この隠れた名著、ハドソン・テーラーの「雅歌講解」が出来上がりました。皆さんにお勧めします。別に「ハドソン・テーラー伝」もあります。これも見逃せません。《く》
〔註〕古い本ですが、貸出し本としてあげて置きました。お読みになって下さい、正に稀覯本(非常に珍しい貴重な本)です。必ずお返しください。この本は私の母・釘宮希和が求めて買ったものです。その初版は昭和3年です。出版社は一粒社、社主は横井憲太郎さん、名古屋市の真中で印刷屋をしながら、利益の少ないこうした信仰書を出版していました。私も戦前、旅の途中お訪ねしたことがあります。ただ今、ご子息の横井久兄が佐賀に居られて、無教会主義集会をしておられます。(2007.10.29.釘宮)



エレミヤを想う

 最近、早天祈祷の日課がエレミヤ書なので、毎日読んでいます。今、教会の聖書日課は毎日旧新1章ずつです。これでは余りに日課として少なすぎます。みなさん、週報に載っている聖書日課を中心に、その前後を毎日10章くらい読んでください。
 ところで、エレミヤ書のこと。昭和16年、大東亜戦争の始まった年です。そのころ、私はこのエレミヤ書にふれるのです。
 それは矢内原忠雄先生の「余の尊敬する人物」を読んだからです。矢内原先生は、この本の序文に、「私の崇拝する人物はただ一人ですが、尊敬する人物は幾人かあげることができます」と、言って何人かの人物をあげました。
 昭和16年の時局がら、その人物選びには出版者の岩波書店の岩波さんと相当意見を交わしたことであろうと、感じるものがあります。
 まず、第一にあげた人物が日蓮です。当時すでに、矢内原先生は、当局からけしからぬ人物として睨まれていたはずです。中央公論に論文を発表して「日本よ、滅びよ」と書いた。それはもちろん、本気で「日本よ、滅びてしまえ」というのではない、反語的警句としてのレトリックだが、それをまともに取り上げて、先生の反対派が攻撃した。先生はついに東大教授の職を退き、野に下った。そうしたさなかでの岩波書店の新書版です。
 岩波は既に岩波文庫で確固たる地位を築いていました。岩波文庫は世界的古典をとりあげました。これは出版社としては稀に見る壮挙であったし、また大成功でした。
 そこで今度は、現代日本社会に思い切った提言もしたい、岩波茂雄さんの視点はそこにあったでしょう。ともあれ、文庫の後に世に送ったのが、新書でした。私は最初、斎藤茂吉の「万葉秀歌」で赤版の新書に触れるのですが、それは文学少年時代のこと。
 次に私が戦争に向かう日本の危路に目が醒める頃、多分、私は19歳だった。先生の「余の尊敬する人物」に触れるのです。すでに私の尊敬する伯父、釘宮徳太郎もいない。私を信仰的に指導するクリスチャンはいなかった。みんな戦争邁進の日本国内の風潮に巻き込まれて、信仰は純粋路線に沈みこんで、それは良いことなのですが、対社会的に、また政治体制に発言することを遠慮し、また恐れての生煮え信仰になってしまうのです。
 こうした状況は、今の元気の良いクリスチャンがたは、批判するけれど、戦時下の緊張した恐怖治政の不安状況は、その皮膚感覚がないから分ってくれません。
 普通、教会に集まるクリスチャンがたは、心のやさしい、上品な、虫も殺さぬ、穏便な方々です。拳をあげて、社会に抗議するような、荒くれた人たちではない。
 牧師一人が、国家体制に反対して、英雄ぶって威張ってみても、そうした教会には早速特高警察、今で言えば公安警察がこっそり偵察にくる。いつも来ないいかめしい人物がくれば、異質な雰囲気だから、信徒諸君にはすぐ分かる。次の週からは信徒諸君はいっぺんに姿を消すのではないかと、牧師さんはそういう状況を見越して、平素から危ない説教はしないのです。
 そこで、「私は政治問題等の第二義的なテーマには触れません。福音の第一義である十字架による贖いと復活の真理、そして聖められた信徒の生活についてのみ語ります。これ以外、不要なことは語りません」、ということになります。
 教会の講壇から、緊急な社会問題、特にモラルに関することに口をつぐむのは、教会として危険です。聖書の水準において、社会に必要な警告や、平和の言葉を語るのは是非必要なことです。
 特に政治家の偽善行為や、国際外交におけるアメリカ等、キリスト教国と考えられている強大国家のキリスト教国らしからぬ恫喝的外交や軍事行動等に、口を封ぜず、はっきり発言することが教会の使命だと、私は考えます。
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 こうした時、当時の王や、為政者たちに対し、恐れず、言うべきことを言い、行動したエレミヤは私どもにとり、非常な励ましであり、また模範です。
 エレミヤは、最後には民衆にむりやり引きずり込まれて、エジプトまで連れてゆかれ、そこで不慮の死を遂げたらしくあります。
 預言者にとっては、王や為政者もやっかいな存在ですが、民衆も又、困った存在です。民主主義というものは、しばしば正義に対して拮抗するものです。
 ある牧師、戦時中は皇道主義キリスト教を説いていたが、戦争が終わると、すばやく民主主義キリスト教に衣替えした。時にはそんな人もいます。
 しかし、多くの牧師さんは、戦争中、遠慮しいしい、苦労したものです。「天皇とキリストをどっちが偉いか」などと愚問を発して、牧師連を困らせた警察もいた。私は「そりゃ、キリスト様のほうが偉いです」と答えた。「死んで、よみがえった天皇さんなかいないでしょう」と答えたものです。
 私は「お前は死刑だ」とまでは言われなかったけれど、「お前のような奴は、造船所に送って使い殺してやるから、そう思え」と若い検事に憎々しげに怒鳴りつけられましたが、私は「ああ、死刑にはならないんだな」と安心しましたね。《く》

〔あとがき〕
最近は、記憶力がすっかり衰えて、まだ「みなさん、愛しあいなされや」としか説教出来なかったという使徒ヨハネほどではありませんが……。もっともヨハネは100歳を越えてからです。私はまだ85歳ですから、ご安心ください、まだまだ大丈夫のようです。でも、とにかく、記憶力など思いもかけない簡単なことをスッポリ忘れていたりして、我ながら驚きます。固有名詞などきれいに忘れていて、閉口しますが、それでもみなさんから助けてもらって、無事切り抜けていますねえ。▼絶対、忘れることのないのは、イエス様の救いです。イエス様の十字架の贖いの救い、これは心魂に打ち込まれています。「心に信じて義とされ、口に告白して救われる」(ローマ10:10)と聖書にありますが、心の深みにおいて信じて義とされる恵み、そして口で告白して生活そのものが、救われて行くこの成長過程は、大切な信仰の救いの進展です。▼信仰は意識のことであり、またその記憶であります。これは単なる脳細胞の生理機能のことではない。意識を支える、神層意識の働きです。これは科学的に言えば宇宙的総合意識などと説明するかもしれませんが、全一の創造者なる神様、私たちを支え、私たちを内包する、真の意識者なる神様、この方の愛と恵み、贖いのイノチに活かされる私たちなのです。ハレルヤ! 《く》
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by hioka-wahaha | 2007-11-06 13:52 | 日岡だより
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