No.304 アグネス・チャン、癌だそうだ 2007.10.28

アグネス・チャン、癌だそうだ

 一昨日の新聞で、アグネス・チャンさんの顔が出ていた。「癌を隠さない勇気」という、大きな活字の見出しがあった。
 おや、「癌を隠さない勇気」ということがあるのかと、私は驚いたのだが、かつて私の妻は癌を持っていながら、それを誰にも知らさず、快活に生きていた。あれも「勇気」だと思うのだが、どんなものだろう。
 妻は最初、30歳前後の頃だったか、乳癌だった。私の神癒伝道第一期のころで、絶対妥協しなかった。たとえ死ぬのなら、死んでくれ、と私は妻に宣言した。何時の間にか治ってしまった。
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 その後、今度は肺癌になった。人は先の乳癌の転移だと言った。私は承知せず、医者にも行かなかった。その後、東京・板橋の誠志会病院の岡田先生に見てもらう折があったが、その時、岡田先生言わく。
 「ああ、治っていますね。しかし、大分に帰った
 ら手術してもらってください」
 と言う。私と妻は浮き浮きして、三田線の蓮根駅まで歩んだことを覚えている。
 大分に帰り、県立病院に行って、手術を受けた。手術を終わると、医師が大きな塊を見せてくれた。妻の肺から摘出した肺の死んだ癌巣であった。
 こうして、妻は癌を2度経験したが、すべては快癒した。こうして、私の妻は癌を癒されたけれども、通常癌は必ず死ぬと言っても良い。
 だから、癌は人生を考えさせる。死に至るまでに、かなりの時間がある。人生にとって死は常に、そうである。メメント・モリ! 死を覚えつつ生きる。そこに人生がある。《く》


平和論を超える(二)

    三、サタンとの戦い
 人間の善意による、如何に広範で熱意ある平和・非戦主義、核反対等、そうした働きがあるにしても、世界の破滅は100パーセントの確実さでやってくるだろうと怯え、また諦めている人々を力づけ、平安を与え希望を与えるのはキリストだけです。
 たとえ世界が滅びるにしても、そのあとに必ずやってくる永遠の世界を知った者でなくては、万一無駄に終りそうな反核反戦の運動を続ける勇気と根気を持ち得ることはできません。
 それはつまりサタンとの戦いである。サタンによって誘惑されたエバとアダムの罪は、折角、神から頂いた「知恵」に、罪の仇花を咲かせ、しかもそれは一時は、20世紀初頭までは何とすばらしい文明の凱歌にさえ見えたのです。しかし今やそれは人類の命のとどめを刺すサタンの陰険な武器であり、サタンの長い忍耐に富んだ戦略であったことがはっきりして来ました。
 今われわれが戦う相手は国家でも軍部でも死の商人でもない、その背後にあって采配を振るうサタンそのものである。そしてサタンは何よりも核の恐怖をちらつかせて青少年を始めすべての民に気弱で怠惰で投げやりな刹那主義とニヒリズムに追いやることを目下の戦術としているように見える。
 このサタンの挑戦に対していわゆるヒューマニズムから出る反戦反核の諸活動は全く甘く無力なのではないかと私は絶望する。世間の目には、われわれ福音伝道の活動も又、甘くて世間ばなれのした力の無いものに思えよう。
 しかし私は言う。キリストの福音こそ物事の急所に迫る神の剣である。福音は回りくどいように見えようが、その実、物事の急所をつく本質的な訴求力があるものなのだ。
 かつての、日蓮宗日本山の藤井日達師たちがやっておられた太鼓を叩いて回る、あれは戦争の霊、悪魔の霊を追い出す反戦反核の根本行であったかも知れない。あるいは白宏真光会の「世界人類が平和でありますように」のスローガン貼り運動、これらはとにかく、些細な行為であっても実行的でその宗派なりに信仰的である。
 私たちクリスチャンにはどういう道があるか、ここ一番、私たちはあの人たちに負けないような真剣な祈りと実行が必要である。非常に簡単な方法がある。皆さんは笑うだろうが、私の旧友の一人は一軒一軒なにがしかの金銭を乞うて廻る托鉢行をしている。この托鉢行の内実は心の平和行である。これは案外最高の平和運動であるかもしれない。

    四、クリスチャンの道
 私達のしなくてはならぬこととして次のようなことを私は考える。
 (1)前回に書いた核ニヒリズム(私の造語だが)から来る前述の享楽主義、非行、残虐な殺人、親殺し、子殺し等、こうした蝕まれた道徳社会に対して、根本的な伝道がなされねばならぬ。福音の中核から彼らに打ち込む霊的救済が必要だ。そこで、単なる弱者を救う愛の宗教といった救済姿勢を超えて、悪魔の終末的掠奪戦法に対する福音戦線からの霊的奪還、対サタン戦争という角度から伝道するのである。
 (2)大臣、財界人、労組指導者、文化人、あらゆる団体結社の長と名のつく人、がんばり屋さん、おイソガシ氏、現代日本を築き上げ、支えてきた人たち、それら尊敬すべき方々すべての人に忠告せねばならない。あなたがたは働き病です。忙しいということも一種の罪であることが多い。家庭をほったらかして妻をPTA狂奔型かアル中にしてしまい、あるいは子供を肉体肥満、非行、暴力、親虐待にまで追い込んでしまう。
 それで、折角あなた方が築いた経済と文明は、今、既に方向性を失っているのです。あなた方はサタンの知恵に乗せられて地球を滅亡に追いやっている悪魔軍の手下になってしまっているのです。
 この世で偉いと言われているあなたがたは実はしばしば孤独である。そういう人々には真実を語る人は近づかない。利益を求め、おべんちゃらを言う連中が沢山集まる。それらの人々に私達は真実の言葉、水割りせぬ言葉をぜひ伝えねばならぬ。注意しなさい。文明も文化も屡々まやかしである。旧約聖書創世記を読むと産業も芸術もカインの子孫の所産であるとありますからね。
 (3)キリストの預言された世の終りは、まさに迫っているのだとの認識をはっきり持とう。「核の冬」がすなわち「終末」なのか、そこまでは私たちは断言しかねる。しかし現代はまさしく終末近しとの思いを深めざるを得ない。社会の症状、地球の症状は余りに多く、その証拠として露呈している。
 そして終末とは何よりもキリスト軍とサタン軍との決戦であることを覚えておこう。教会は今、終末的「現代」に即した神学と伝道牧会の実践学、いや実践家を必要としているのではなかろうか。
 クリスチャンは世界の終末を恐れない。だから、核による地球の生命の潰滅を恐れ、あるいは戦争の悲惨さを恐れて、平和論を唱え反核・反戦を戦おうとするのではない。
 クリスチャンは、世界の終末を恐れるどころか、期待して待ち望んでいるのだとも言える。それは主イエスが再び来たり給い、栄光の輝きをもって来たり給う新天新地が開けることを信じているからである。
 すべての信仰と希望の達成する日、大歓喜の日が開けるのであるから、歓呼してこれを待ち望もうではありませんか。《く》(前回を含め、1984年8月15日の旧稿を再掲載しました)

〔あとがき〕
本当は主要頁を用いて書きたいのですが、藤川ミツ姉の帰天のことです。後日に詳細をしたためます。
 藤川ミツ姉は10月21日、午後9時42分に天に召された。姉は1914(大正3)年10月26日、沖縄にお生まれ、今年93歳でした。あと5日でお誕生日でした。近親者と信徒諸兄姉の列席にもとに22日に前夜祭、23日に葬儀を当教会堂にて感謝と哀悼のもとに行われました。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-10-30 13:16 | 日岡だより
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