No.303 癒す力はキリストにある 2007.10.21

癒す力はキリストにある

 ある女性が群衆にまぎれこんでイエス様の衣(ころも)の裾にさわりました。「この方の衣の裾にでもさわりさえすれば私の病気はなおる」と自分に言い聞かせつづけていたのです。
 そうすると一瞬にその病気がなおりました。とたんに、イエス様が振り返りました。
 「誰がさわったのかね。私から力が出ていったよ」
 とおっしゃるのでした。イエス様は神様ですから、イエス様からは神の力が出て行くのです。
 イエス様が神様だということは、イエス様は人間の歴史上唯一無二の方だということです。お釈迦さんもマホメットさんも修業し、瞑想して偉大な人になりました。尊敬すべき人です。
 しかし人間の一人であることには間違いありません。その証拠には、このお二人にはちゃんと墓があります。イエス様には墓がありません。
 昔、子どもの遊ぶ自動車のおもちゃなど、ゼンマイがついていました。その内、電池をつける自動車が出てきました。奇蹟の力はこの電池に似ています。
 この奇蹟の力のことですが、もちろん、人間といえども熱心な修業でもすれば、相当の奇蹟は起こせます。しかし、私たちはイエス様という神様の力の源泉から電池をもらったり、電線を引いたりして、神癒のご奉仕をしているのです。
 この力の源泉は本当に強力なのです。その力をフルに働かせさえすれば、すばらしい奇蹟が起こるのは当然ですが、でも、お力を受ける側が、電気が流れやすい銅のような良導体でなくてはなりません。
 皆さん、私が銅のような良導体でありますように祈ってください。この教会に癒しの奇蹟が益々起りますように。《く》(1996年の「テレホン聖書」より)


平和論を超える(一)

     一、核戦争の恐怖
 もう20年ほど前のことだが、NHKのテレビで「核戦争とその後の世界」を特集していたことがある。私のノートに残しているのだが、次のようなことを言っていた。
 もし核戦争が起ったならば、その核爆発によって拡散したチリは放射能を持っているから、それは人類やすべての動物や植物に異常を来たらせる。核爆発により人類の一割が死んで九割が生き残るとしても、その生き残った9割の人類もやがて自らの原爆病と、そして食料とすべき動植物の異常衰亡でやがて死んで了うだろう。
 幸い、その試煉に奇跡的に耐えて生き残ったとしても次の死が待っている。大火災による煙は成層圏へ上昇しその結果全地球に6か月ないし3年の凍結期をもたらす。すべての植物、海中のプランクトンも熱帯の密林も遂に枯れ果てて、地球の表面は砂漠のごとくになってしまう。当然、酸素が地球上より消え失せる。
 その時生き残る可能性のあるのはゴキブリぐらいのものだという。アメリカの国会でだったと思うが、調査会に呼ばれた2人のアメリカの学者と、もう2人のソ連(!)の学者が特に地球凍結について語っているのが印象的であった。
 ちょっと気がついた一挿話がある。この時ソ連の学者の一人がこういった。「核を凍結しなければ地球が凍結されます」。レトリツクとしては秀逸である。しかしどうも政治臭い感じがする。僕らならこう言うだろう。「地球が凍結されれば地球上の生命は根絶やしになります。しかし核は凍結されても決して根絶やしにされません。核は廃絶するよりほかはないのです」と。
 この放送は是非ビデオにとっておきたかつた。平和教育・核反対の宣伝に絶好の視聴覚資料だったと思う。これを見て核戦争の行きつくところは、無惨、無意味、人類というよりも地球上の生命そのものへの反逆、犯罪なのだ、ということを考えない人は一人もあるまい。そしてこれを見た人は誰でも核絶滅の願いを抱くことであろうと、一度は思ったことである。しかし、

     二、核によるニヒリズム 
 あのような世界終末の恐怖をもろに見せつけられて、却ってまったく別の考えを抱く人も案外多いのだということについて、私はこれまで考えたことはなかった。そのことを教えてくれたのは大分合同新聞のN記者であった。それは若い人たちに特に多いのだというのであった。
 「つまり、こう考えているんですよ。『どうせ、この世界は核イッパツで終りじゃないか。明日か、今夜か、いや今この瞬間か、何もかも無くなってしまうかもしれない。金総書記かブッシュ大統領か、どいつか知らないが、そういう他人に俺の命が握られているなんてたまらないよ。しかし、これはどうしようも無いじゃないか。受験戦争がんばれ、人生がんばれ、成功せよ、積極思考を持て。
 冗談じゃないよ。どこに自分でがんばって自分の人生を勝ち取るゲームがあるんだ。どんなに絶対な勝ち札を持っていたとしてもテーブルの下には今か今かと水爆が待っているんだ。だからさ、今日生きている間、好きなことをして面白く可笑しくすごすさ。へへっ、これ以外どんな人生があるって言うんだい、えっ、おじさん』こんなふうにやられますよ」
 このN記者の教えてくれた言葉は私の心に深くつき刺さって残った。ここには大正時代にはやった芸術家達の一種ロマンチックなニヒリズムなどとは比べものにならない深刻で現実的なニヒリズムがある。誰がこれに説得し得るだろうか。
 現代の症候群、青少年の非行、中年にまで至る享楽主義、無気力、怠惰、麻薬中毒等々、これに逆対比してあくなき金儲け、多忙、働きすぎ等々、全てこのニヒリズムによるのか、あるいはこのニヒリズムを意識して無視する結果からくるのか、そのいずれかだと診断して誤りはあるまい。
 今、教会はこの現代の暗部を見る目を失っているように思う。罪を説いても祝福を説いても彼らは白けてしまう。彼らの問題点を突いていないわけだ。終末を説いてさえ彼らは白ける。「エホバの証人」式に最後の審判の恐怖を語っても、彼らにはその恐怖は多分無いのだ。
 あるのは明日への無価値感であって、期待するものは何も無い。恐ろしいのは現在を生きることであるが、その恐怖に埋没して神経症におちいるか、それを忘れようとして肉欲の渦中に溺れるか、これしかない。
 そのような人々にキリスト教は何を語り得るか。何を為し得るか。キリスト教にこそ、それらの人々に語ること、為すこと、与えるものがあった筈ではなかったか。それを今、われわれは忘れ果てているのではないか。
 私たちクリスチャンが平和問題などを考える時、それを信仰問題よりも一段次元の低い問題として考える傾向がありはしないか。(中には低次元のことと考えずに、両方を弁証法的緊張関係で捉える方もおられるだろうが)。そこに私達が平和問題に心底から真剣になり得ない理由がある。戦後すぐの時、赤岩牧師があらわれて「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という二分法を用いてキリスト教と共産主義の使い分けをしたことがあったが、その二分法を今でも我々は信仰と平和問題において用いているのではないだろうか。
 今わたしたちが直面している核爆発を抱え込んだこの平和問題は決して「カイザルのものはカイザルに」という二分法では片づかない事だと私は思う。これは窮極には政治家にも社会運動家にも手に負える問題では無いし、だから、彼らに任せておける問題でもない。(未完)《く》

〔あとがき〕
日出町大神に無教会的僧院を営む田口学法兄のトークライブに行ってきた。心理療法家の浮木さんとの放談会のようなものであるが、あっけらかんに「ワッハッハハ」である。私の笑いの学派を乗っ取ったような形であるが、私も楽しんで2時間を過ごした。「何も無くなった時、得るもの多し」との体験的悟りを語ってくれた。学法兄、いいなあ! 《く》
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by hioka-wahaha | 2007-10-23 16:43 | 日岡だより
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