No.302 日本に本当にリバイバルは来るのか? 2007.10.14

日本に本当にリバイバルは来るのか?

 今週のリバイバル新聞にややショッキングな記事がある。大記事ではない。どの新聞にもある第一頁の横帯欄だ。朝日で言えば「天声人語」だが。
 その欄の記者が、何年も前、ある人から「日本にリバイバルが来ると信じていますか」と問われたことがあるそうだ。その時、こう答えたと言う。「いやあ、それは分かりませんね」。
 質問者はひどく呆れた。それはそうだろう。「リバイバル新聞社」の代表者が言うのだから。しかし、その欄の記者、多分、代表者・谷口さんとしては正直な答えだったのだと書いている。クリスチャンとしてウソは言えないと言うわけだ。この逸話は私の心を深くえぐった。
           *
 私だったら、そんな時、なんと答えるだろう。かつて、手束先生の民族総福音化運動の機関紙にある先生が、「この民族総福音化ということ、そう簡単には達成できまい」と第一頁に書いておられた。その用語をはっきりは覚えてはいないので、ご勘弁願いたいが、要するに「民族総福音化ということは、あわてないで、ゆっくり待て」ということだったかも知れない。
 これは人間の正直な事態の見通しである。そのとおりだろうが、神様はこう言われる。
 「もしおそければ待っておれ。
  それは必ず臨む。滞りはしない。」
 その前文にこうある、「この幻は……、終わりをさして急いでいる」とも。民族総福音化の幻は単に手束先生の夢ではない。神様からの幻なのだ。神様は実現を期して急いで居られる。《く》


人類の栄化、宇宙の回復

 ローマ人への手紙第8章18節~20節をテキストとします。できれば「聖霊も万物も共に苦悶し待望する」というサブ・タイトルをつけたかったのでした。
 ローマ人への手紙に見る聖書の自然観は壮大です。すべての被造物、宏大なるこの宇宙と、地球と、そこにある鉱物、植物、動物のすべて、それらはすべて虚無に陥っています。
 彼らはその虚無的惨めさから解放されたい。そのために人類が完全に救われ、彼らが神の国の相続者となる日、その日を待っているのだと言うのです。
 この人類の救いを待つ彼らの心は、今、うめいているのだという、これがパウロの自然観です。「花鳥風月、山川草木」を愛でる日本人がおおよそ思ってもみない超絶的自然観です。
 これが本来の聖書が持っている自然観です。日本的自然観は、どこか閉じられた絶望の囲いの中で、「このままでいいのだ。わびしい自然だが、自然法爾の美しさがある。」と自己催眠をかけて続けているのだと考えることも出来ます。
 新共同訳でローマ8:20に、「被造物は……希望をもっています。」とありますが、その前後でパウロはすべての被造物を擬人化して、彼らに感覚があり、感情があり、意志もあるかのごとく見なしています。
 私はこれを無意味には読めません。最近のごく一部の、それも変り者かはしれませんが、とにかく第一線級を行く科学者たちが「ひょっとしたら、この宇宙は一つの生命体ではなかろうか」などと考え始めました。
 ヨーロッパ的キリスト教は自然を死者、劣等者とみなし、これを傷つけ、これを奪うことは、神様から与えられた人間の特権のように決め込む癖があったようですが、本来の聖書は違います。
 今、一部の科学者たちが叙上のように宇宙生命観に目覚めかけています。これはキリスト教にとっては歓迎すべきことでありましょう。
 宇宙は人類の完全な救いを待ち望んでいるのです。
            *
 さて自然以上に、人類は悲惨な状況にいるのです。文明は発達して、今や文明が人類を恐怖のどん底に落とし入れようとしている様相すら見え始めています。人類には自己救済能力は無いのでしょうか。
 然り、個人として見ても、そう見えますね。善い暗示よりも、悪い暗示を受けやすく、善い決心よりも、悪い決心のほうに乗りやすい。善い言葉よりも、悪い言葉を覚えやすく、精神的上昇機能は低いのですが、下降機能は強力です。この傾向はキリスト者といえども同様でして、霊性において救われていても(その事は確かなのですが)、心の持ちかた、身のこなし方等について、とかく出来が悪い人が多い。クリスチャンにあるまじき道徳的罪をさえ犯す人もある。そして、クリスチャンであるばかりに殊更に厳しく良心を責めさいなまれる、という矛盾の構図(ローマ7:7~24)が起るのです。
 もともとこの人類の罪こそ世界苦の元兇。万物はその巻き添えを食って、共に苦しみ痛み、うめいているというのが前述のローマ人への手紙の所論です。しかしまた万物はその回復の希望を人類の救いの上に期待しているとも聖書は告げます。故に私たちキリスト者は、単に人類の苦悩を歎くと言うだけでなく、被造物すべてに対する申し訳ないという謙虚さをも持ちつつ、未だ救われていない人類同胞に対する「うめき」とも言うべき救霊の祈りと伝道が必要であるのです。
           *
 さて「うめいて」いるのは被造物と人類だけではありません。ローマ8:26によれば、聖霊様は「切なるうめきをもって私たちのために執り成して下さる」とあります。
 聖霊様は神様の「精神」です。聖霊様は、人間の霊とチャンネル出来ますから、人間の心が分るのです。人間の最も深い情報も汲み取ることができます。そのゆえに万事を相働かせて信じる者のために益と成らしめる」ということが出来るのです。それのみか、神様はその全智全能の予知と計画によって一人一人をあらかじめ選び、召し、義とし、遂には栄光を与え給う、という日がくるのです。その宇宙万物の回復の日は意外に近いだろうと私は信じています。
 さて、万事を相働かせ万物を一つの目的のために動かせることの出来る全能のお方、このお方の一手に宇宙の保全と未来があるわけです。故に聖書の歴史観、人生観は運命論ではありません。摂理論です。神様のご意志が全てを決定するのです。そこで、その神様の子らであり、その御国を相続するキリスト者は、神様と共に自分を含めて万物に対する分権的権威をもっているのです。しかり、その故に私たちは私たちの現在と前途を取りまく一切の環境に対し、神様の御旨に沿う計画とその実施、変更と達成のために、命令することさえ出来るのだと思いませんか。
 そうです、ペテロはイエス様の真似をして「タビタ、クミ」と命じました。すると死んでいたタビタ、つまり訳せばカモシカ、このカモシカ女史が即座に生き返りました。ところで、先日のことです。A君の自動車がエンストしたそうです。そこでA君は、「エンジンよ、もう一度、動き始めよ」と命令したというのです。するとエンジンが動き始めたそうです。主を崇めましょう。天地回復の大奇蹟の前興行が今教会で起っているのですよ。(1988・9・11の週報再掲載)

〔終わりに〕
終わりに大事なことを書きたい。小さな字で書くけれど、大切である。「本当に赦すということ」という本を見せて貰った。「許す」という言葉と違い「赦す」という言葉には、心の奥の深い罪をも許すという意味合いがある。これは本当の意味では、人間には実行不可能なことだと気づきませんか。「主の祈り」で教えられるイエス様の言葉、「私に罪を犯した者を私が赦しましたから、私の罪をもお赦しください」のお言葉も、同じくこれは私たちには不可能にみえる。人は本当に100パーセント人を赦すことはできない。しかし、不可能なことをイエス様は私たちに命じられる筈は無い。そう言えば、マタイ5~7章のイエス様の教えも似たようなもので、実行不可能な教えではないか、これを実行しようと思って、かのトルストイは神経症に陥ってしまったように思える。しかし、貧乏な人は借金を払えないが、百万長者は幾らでも払える、いや、人の困っている借金さえ代払いしてやれる。しかし、貧乏人であっても、大金持ちから金を廻して貰えれば、どれだけでも自分の為にも、人の為にも金を使える。同様に、人の罪を赦してあげる心の財産を神様から廻して貰いなさい。それは「愛」です。赦すというより、愛するのです。この愛の力を神様に求めなさい。その力で敵をも愛するのです。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2007-10-16 19:03 | 日岡だより
<< No.303 癒す力はキリスト... No.301 次代牧師候補者、... >>