No.301 次代牧師候補者、出でよ! 2007.10.7

次代牧師候補者、出でよ!

 古林三樹也先生から、毎日メールで通信が送られてくる。み言葉によってピシッと短いメッセージや、味わいの深い先生の黙想や、又もっと面白くてたまらない雑記事(失礼!)が満載です。
 一昨日(つまり10月5日)の記事の中の「今日の日」という欄、「この日、山口百恵ラストコンサート、1980年、武道館で『さよならの向こう側』を歌い終えると、足もとに静かにマイクを置き深々と一礼して、そのままカーテンの向こうへ」と書いてありました。
 よくもまあ、こんな事を、也先生、どこで調べてくるんですかねえ。
 ともあれ、だいぶ前のことですが、テレビで、世田谷あたりの住宅街を、主婦然として買物にでも歩いていた百恵さんの姿を見ましたが、綺麗さっぱり過去を捨て去った、彼女に感心させられたことでした。
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 ところで、私のことですが、常識的にはもう引退時期に来ています。「お元気ですなあ」と言ってくれる方もいますが、いえいえ、後継者が見つからず、困っているだけの話です。
 こういうことを、言うのは現在のこの教会の信徒諸君には無礼千万の話です。それは、「あなた方の中に、牧師後継者に相応しい人がいない」ということでもありますし、また、そのような人材に育てていなかったということでもあります。
 要するに、私が牧師失格者と自認すべきことなのです。リーダーは常に次代のリーダーを用意しておかなくてはなりません。ともあれ、小生の引退を待ち受ける次代牧師候補者歓迎です。《く》


霊的世界における対話について

 先々週、299号の記事の中で、神様との対話ということを書きました。今、天界にいる私の父や母や伯父との会話などについても書いたのでした。
 これは皆さんに誤解を与える恐れがあります。ある方々は私をいわゆる霊能者のように思ったかもしれません。私も時に霊界通信などを読むことがありますし、私はああいう書きものを一概には否定しません。あり得ることだと思います。
 しかし、本気になって受け入れる必要もありません。こうした種類の本の読み方は、その記事に真実なイエス・キリスト様の御心の香りがあるか、どうかということが、判定の基準です。私が一番愛読するのはスンダル・シングですね。それから、異論はかなり多いのですが、スエーデンボルグです。
 一時、多摩川の上流のほとりにあった、日本古来の天皇家にまつわる(と自称する)神道道場に、2か月ほど、書生風に居食させて頂いたことがあります。そこには組織者の大先生と、霊媒もなさる夫人とが居られた。もう50年も前のことです。どうかすると、私のキリスト信仰が侵されそうな気がして心配であったことを覚えている。事実、危険だから、こんなことを誰にも薦める気はありません。
 なぜか、私を気に入って、「釘宮さん、ここに家を建ててあげるから、奥さんも連れてきて一緒にやってくれないか」とさえ言われたことでした。祖述者として、側に居て欲しかったのだと思う。
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 ともあれ以上は、私には最近の流行語、スピリチュアルな傾向は殆ど無かったということを書きたかったのです。
 冒頭に書いた、天界の父たちとの会話の事ですが、あそこを注意して読んでくださると、私は心の中で遊戯のようなことをしていたのだと、分かってくださると思います。
 よく私は言う。私たちの心は2重構造になっている。私たちの心は対話的組織になっている、と。
 科学的研究者が、その研究をしている時も、作家が小説を書いている時も、夢中になっている時は別として、いや夢中になっている時ですら、「うん、今うまく行っている」とか、「いや、これは駄目だな」などと、自己称賛や自己批判の会話をやっているでしょう。まして困難にぶっつかっている時は、様々な低迷語で考え込むことでしょうね。
 あっさり、あの時の状況を白状すると、そうした私の心の内面構造の中では、一方の私が(申し訳ないですが)神様の代理をして、私と対話していたという訳です。つまり独り芝居。
 そんなことは「あんた、不謙虚だよ」と、叱られそうですが、しかし私としては意外に楽しかったのです。パウロは良心と呼びますが、人の意識の深いところ、いわゆる潜在意識よりももっと深く、私は深層意識と呼んでいるが、更にもっと深く神層意識と呼びたいのですが、
 その箇所で、私たちは少しでも、また小さくても、エリヤのように天来の「細き声」(列王記上19・12)を聞くことができるのだと思うのです。これが良心なのだ、と私は思うのです。いろいろ自分のことに気づかいをし、嫌疑をかけるような臆病な心を良心と思いやすいけれど、これは誤りです。
 以上のような次第で、神様代理の内なる第二の私と、第一の私が対話していたということです。大したことではありません。ただし、先にも書きましたが、非常に楽しかったのです。
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 実際的に言うと、まず手始めにニコニコ笑いながら、祈りの言葉を神様に申し上げるとよいのです。(私の小冊子に「笑いながら祈る祈りの方法」という薄い冊子がありますから、これを参考に読んでください。)
 そうすると、有り難いことに、いつでも神様第一、という生き方が始まります。神様を神経質なカミナリ親父のように恐れないで、遠慮なく心の中でいつも会話するような祈りをつづける事が出来るようになります。
 そうすると「絶えず祈る」という聖書の御旨が難なく可能になります。そうすると、「いつも喜んでいなさい」と「すべてのことに感謝しなさい」という2つの御言葉が、これで簡単に可能になります。
 この「常に喜んでおり、すべてのことを感謝する」というようなことは、並な決心では実行できません。多分、どんなに堅く決心しても不可能だと思います。しかし、これが「習慣」になると簡単です。
 ですから、聖書で「常に、絶えず、すべてのこと」と命令形で書いてはありますが、本当はこれが習慣になってしまっていなければ不可能であるということです。もっと説明しますと、
 「絶えず祈る」という事は、現実の問題として、口を動かし、声を出す祈りとしては、厳密には不可能です。しかし、心の中で言葉を繰り返して言っているという状態は、案外簡単です。
 自由にあなたの意志で、あなたの言葉で、遠慮なく、神様に、またイエス様に、時には聖霊様に、何時も語っているということは案外、簡単に出来ます。
 こうです、ニコニコ笑いながら、優しい神様に向かって、遠慮なく、気軽に、手が余って居れば手を叩いて、会話を始めるんです。目をあげて、天におられる神様とイエス様を見上げてください。
 神様もイエス様もニコニコ微笑んであなたを見ておられます。あなたは自信を持って、「お父さま、イエス様」と声をかけてください。喜んでイエス様はホイホイとあなたにお顔を向けて下さるよ、と言えば、敬虔な先生がたからは叱られそうな気もしますが、さあ遠慮なく天を見上げてください。
 そこで、あなたの心にイエス様が来て下さいますよ。あなたは自信をもってイエス様をお迎え下さい。
 信仰の向上のすべては、ここから始まります。皆さんの上に、ご祝福を祈ります。《く》

〔あとがき〕
台湾に宣教師として、おもむかれておられた松田敏子先生が一昨日、教会に見えられ、佳き楽しい時を持ちました。先生を由布院にお送りしましたが、宿泊など中尾はるな姉が行き届いたお世話を下さって、感謝でした。松田先生の台湾での宣教のご経験など素晴らしいお話をお聞き出来て感謝でした。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-10-10 00:12 | 日岡だより
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