No.299 「ヘンシーン!」 2007.9.23

「ヘンシーン!」

 かつて「ヘンシーン」と言うのがはやったが、最近の国井君がそれだと、もっぱらの評判である。
 彼の入院しているD病院に行ってみた。大きな口を顔一杯に開けて、「センセーイ」と声を上げて私を迎える。
 目をギョロンと開けてと言えば、形容としては拙い言葉だが、実際ギョロンと開けるのだ、そして歓迎の両手を広げて、「教会の先生だぞオ」と周辺の患者さんたちに言う。
 「道ばたで酒を喰らって寝ていた時に、この牧師先生に救われたんだ」と、紹介する。
 まさに、これがかつての呑んだくれの国井一男兄弟である。生まれは東京の足立区、川崎の工事現場から名古屋、姫路と流れ流れて、この大分に来た。
 金が少し入れば、すぐ無人販売機の前に立ってガチャンと酒缶に手を出す。その彼が、病院の中だから当然だろうけれど、しらふで気炎をあげていた。
 まさに一本召し上がったような勢いで、「ねえ、ねえ。聞いて、聞いて。あっしにはイエス様が染み込んでいるんだ。この信仰さえあれば、怖いもの無しさ」と皆を見廻す。
           *
 「あっしはまだ駄目だけどねえ。教会に行ったら皆に聖書のお話を教えてくれるよ。あっしは2年、毎朝、早天祈祷って言ってさ、朝早く教会に行って祈るんだ。この牧師先生と一緒に祈ったんだよ」。
 国井君は私との毎朝の早天祈祷がご自慢である。たしかに、そうだ。この3年、毎朝、この国井兄弟と私のたった2人の早天祈祷会だった。
 この祈りが、この呑んだくれのオッサンをこのような陽気で積極的で、信仰の証し(!)をする人物を造ったのか。私は愕然とせざるを得なかった。《く》


皆さんに訴えたい

 先週の祈祷会で、こんな文章を書いて、皆さんにお見せした。
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 びっくりするでしょうが一つ、創価学会の「聖教新聞」を読んでみませんか。
 聖教新聞に比べると、なんと、キリスト教の新聞や雑誌の言葉の弱いことか!
 残念だが池田大作氏の作る文章は良いですね。この方の「対話姿勢」は格別です。過激な撃破思向だが、その傍らに「対話」があります。
 有名人との「対話」の毎週(?)の記事は、これ又看板記事。カネも使ってはいるのだろうけれど……と、こう言えばケチなやっかみだが、とにかく、ああいう一流人物を連れてきて、よくもああしゃべるものですよ。
 あれには相当な教養がいります。そして池田さんご自身が言っていますが、対話のコツは「小異を残して大同につく……」、これはちょっと伺いがたい手の内ですよ。(小異を捨てて、ではない)。
 もうちょっと書きましょうか。お世辞めくけれども。池田大作氏の作らしい、青年向きの「詩」も良いですね。(もっともご自分で?、「桂冠詩人」と飾るのは少々、いただけないけれど)
 なるほど、伝道者は詩人であるべきなんです。
 詩を吐けない人に、人の心を打つ言葉が出る筈がない。
 それにしても池田大作氏の喝破する短句が胸を打ちますね。人の心を揺すぶるフレーズが一杯です。
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 そう言えば、イエス様のお言葉こそ、そうした短い名句が多いのですね。以下に思い切ってイエス様のそうしたお言葉をたくさん掲げてみましょう。
「我は道なり、真理なり、命なり」。
「我に来たれ、我なんじらを休ません」。
「我は世の光なり。我に従う者は暗きうちを歩まず。命の光を得べし」。
「まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生まれずば、神の国を見ること能わず」
「恐るな、なんじ今よりのち人を漁どらん」。
「なんじらの誤れるは、聖書をも神の能力をも知らぬ故ならずや」。
「おのが十字架をとりて我に従わぬ者は、我にふさわしからず。生命を得る者はこれを失い、我がために生命を失う者はこれを得べし」。
「信ずる者には、全てのことなし得らるるなり」。
「我が与うる水を飲む者は永遠に渇くことなし。我が与うる水は彼の中にて泉となり、永遠の生命の水湧きいずべし」。
「天地は過ぎゆかん。されど我が言は過ぎゆくことなし」。
「われ新しき戒命を汝らに与う。なんじら相愛すべし、わが汝らを愛せしごとく汝らも相愛すべし」。
「われ父に請わん。父は他に助け主を与えて、永遠に汝らと偕に居らしめ給うべし」。
           *
 さて、ここで文脈を切って、もう一度、対話のことに戻りたい。
 対話にはいろいろの対話がある。まず自己との対話もある。これは宗教人にとって非常に必要。まして、最高の対話は神様との対話である。また、イエス様との対話である。聖霊様との対話である。
 更に、私のしばしば行っているのは、すでに天界に帰っている私の父や母や、また伯父との対話である。
 (まあ、あまり神秘的に考えないで、空想の中で楽しい夢物語りをやっているのだと、ご想像ください。はじめはお伽噺のように思えましょうが、繰り返し試みていると、次第に深みが分かってきます。馬鹿にしないで、皆さんも試みてください。
 また、内村先生や手島先生、先輩の先生がたと話してみましょう。また、預言者たちや使徒たちを招いて語り合ってみましょうか。
 空想懇話会とでも言いましょうか。アウグスチヌスや聖フランチェスコや隠れたインドの聖者スンダル・シングなど、どうでしょう。凄い座談会になりますよ。)《く》

〔推薦図書台〕
礼拝室左の廊下側に新旧の推薦図書を置いてあります。これだけ読めば良いというわけでもありませんし、よく言われるお詫び言葉に「独断と偏見によって選びました」というのがありますが、まさしく私(釘宮)の「独断と偏見」で適当に選んで、置いてあります。どうぞ、一応手に取ってお読みになってください。
 キリスト教は本の宗教だと言われることもあります。ちょうどルターの宗教改革とグーテンベルグの印刷術の発明が時代的に重なったということもあり、ルターの母国語による聖書の翻訳という努力が正に実を結ぶ時代的好機でもありました。
 作文家にとってはパソコン(ワープロ)という器械のお陰で、なかなかタイプライターになじめなかった日本語も、やっと文字書き器械にめぐり会えた訳です。カナ文字が無くて電報送信に苦労した中国もパソコンのおかげで今回やっと文明の利器にめぐり会えたということかもしれません。
 もっともキリスト教世界に達文家が少ないことは難点です。生長の家の発展は谷口雅春氏の文章生産力、今日では幸福の科学の大川隆法氏の文章力の凄さを計算に入れなければ、あの教勢発展の秘密は解けないでしょう。さすがのキリスト教界の達文家たちも、例の聖書解釈の厳しさか、アウグスチヌス以降のキリスト教神学の緻密さに足を取られてしまい、理屈に目まいがして一般の読者に喜んで読んで貰える闊達な文章が書けない。
 この隙間をピタリ埋めることが出来るのは、奥山先生だけでしょうか、当釘宮先生は少々へ理屈をこねる癖があってその点が難所です。良き次代のライターを期待すること切なるものがあります。《く》

〔リバイバル新聞から〕
9月23日のリバイバル新聞のトップに、草加神召教会の天野弘昌先生の奇蹟的癒しの記事が載っていました。先年、当教会にもお出でくださった天野先生を皆さんもご記憶のことと思います。あの時もずいぶん奇蹟的お証しが多くて驚いたものですが、今回も先生ご自身の難病退治の記事でした。▼病気は多発性骨髄腫、血液癌の一種ですが、大学病院の医師の診察では余命半年という厳しい診断。先生の教会では開拓以来16年にわたって癌患者が続々と癒されたが、今回のご自身の癌の病気について一時は「一粒の麦」としてリバイバルの基礎になるのではないかと思ったそうです。しかし「いや、これはサタンの偽りである」と悟って、これは「死の霊との戦いである」との示しを受けられ、故に「肉の命の戦い」ではなくリバイバルのため、救霊のために祈ろうと全教会一致して祈り始めた時、先生ご自身「死の霊の離れ去ってゆくこと」を感じ、また病院の精密検査でも、数値が驚くほどの低下を示し、医師も驚いたそうです。▼実は先生の牧会地、草加市は「他の地域以上に中絶を扱う病院が多く、中高生の中で親に内緒で処置できる病院の多い町と評判の町だという。ここに日本のリバイバルを妨げる死の霊の温床がある」と、実感されたという。近くには水子地蔵尊があり、全国でも有名な中絶経験者のお詣りする箇所だという。滝元順先生も来られ、この水子供養者の霊性奪還の取り成しの祈りを一緒にされた時、何よりも教会の出席者が増え出したという、私たちも大分周辺の霊的地図に目を光らせ祈りましょう。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-09-25 16:32 | 日岡だより
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