No.297 「救い、癒し、解放のメッセージ」 2007.9.9

「救い、癒し、解放のメッセージ」

 先週は鳥栖の永井先生のクロスロード・ゴスペル・チャーチの入堂式に招かれて行ってまいりました。かねての先生のお目当てのビルが素晴らしい会堂に生まれ変わっていました。永井先生の造形ヴィジョン能力は凄いと思いました。その先生のヴィジョンを活かして立派に建築されたヴォーリズ事務所も素晴らしいと思いましたが、私は写真を撮る習慣がないので、画面でお見せできないのが残念。
 さて、この会堂のビルの前に立てた路傍の柱に教会の縦長の小さな看板を取り付けてあり、そこに市民への呼びかけの言葉がありました。
 「救いと、癒しと、解放のメッセージ」、
 と言うのです。これは勿論、永井先生の選んだ言葉でしょうが、この教会の建物全体の叫び声にも見えました。私はメッセージという言葉の威力をこんなに肚に響くように読んだことは初めてです。
 福音派の教会では、説教をよくメッセージと言います。私が初めてこれを聞いたのは、元神学校の校長で、大分県の宇佐郡に帰られて開拓伝道をされた某先生のお口からでしたが、なるほど普通使われる「説教」という言葉が、キリスト教には相応しくない言葉だなあ、と初めて気づきました。たぶん、これは仏教のお寺さんからの借用でしょうね。
 そう言えば、「教会」という言葉は、天理教や金光教からの借用でしょう。キリスト教には相応しい言葉とは思えません。ある先生は「召団」と変えてみたことがあります。私もその名称を使ってみましたが、なじめなくて長続きしませんでした。
 さて、この永井先生が使われた「メッセージ」という言葉ですが、これには永井先生の深い、大きなヴィジョンがあると思うのです。
 まず、先に引用しました、「救い、癒し、解放」ですが、「救い」という言葉でさえ、表立って使うには、一般市民向けとしては多くの牧師先生がたは躊躇されると思う。
 まして「癒し」は尚更です。キリスト教会で、世の中のご利益宗教なみに「病気直し」など、キャッチ・フレーズに使いたくない教会は多いと思います。尤もですが「神癒」の確信が無いからでもあります。
 教会はもっともっと、病いの癒しについて、我々こそ、世の並み居る諸宗教に比べて、本家であるぞよとの自信と誇りを持つべきなのです。それが、神癒伝道者の自信と誇りを持っているはずの私でさえ、教会前の看板に「癒し」のことは書きませんね。いわば、上品ぶっているわけです、いけませんねえ、これは。
 ともあれ、今回の鳥栖の教会での永井先生の宣言とも言うべき、「救いと、癒しと、解放のメッセージ」、これこそ颯爽とした感じで私に迫ってきました。私は一瞬、棒立ちになりましたね。
 特に「解放」という言葉の強烈さに打たれたのです。「解放」という言葉の意味を改めて深く味わったのでした。
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 「解放」という言葉は、戦後の日本人にとっては、左翼陣営のお得意の言葉であった。階級闘争の宣言文句には良い言葉であった、解放!
 キリスト教用語としては、神学用語としては古くよりあったかも知れない。私は神学にはしろうとなので、しかとは言えないが、罪の捕らわれ人である私たちを、その罪から解放する福音の力、イエス様の十字架の愛、かように人類をサタンの囚縛から解放してくださろうとする神のご計画。ここで、キリスト教の長い歴史で「解放」という意義は連綿として語り続けられてきたと思う。
 しかし、はっきり解放という用語を使った例はあまり多くはなかったと思う。
 ところで、普遍的な用語として、人類を罪の束縛から解き放ち、自由の身としてくださる意味で「解放」という言葉を使い始めたのは何時ごろからであろうか。
 ともあれ、これを個人の悪霊からの「解放」として使い始めたのは、ここ二、三十年のことでなかったか。顕著な例としては、私の記憶ではアナコンディアでなかったかと思う。
 アナコンディアはアルゼンチンの福音の闘士だ。あの時代、永井先生がアルゼンチンに行って来られて、「釘宮先生、アルゼンチンは凄いですよ」と仰有って、「今日にもアルゼンチンに行ってらっしゃい」というご様子だった。その当時、アナコンディアの名は天下に響いていたと言えば言い過ぎかも知れないが、そのアナコンディアが東京に来たのだ。
 会場は晴海の大きなホールだったと覚えているが、そこでアナコンディアの前に出て、倒れる人が続々出る。その人たちが次々スタッフに抱えられて次の部屋に運ばれて行く。そこで悪霊の解放が行われていたのである。この場合、悪霊をその人から追い出すことを解放と言うのであるらしく、悪霊を内に宿していた人を悪霊から解放するという言い方ではなかった。この辺の理解は私も曖昧です。
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 ところで今回、永井先生が鳥栖市の中央の路傍に「救い、癒し、解放のメッセージ」と打ち出されたご意図を、先生から直接お聞きしたわけではありませんが、私はお察しするのです。この度のクロスロード教会の面する道はかなりの重要幹線です。ここで、鳥栖市のすべての市民に訴えているという意気込みを感じます。
 そしてクロスロードという命名は「十字架の道」という意味でもありますが、また十字交差の道、つまり鳥栖市は九州の重要幹線、鹿児島と博多、北九州を結ぶ南北線と長崎と大分を結ぶ東西線との交差点なのです。このクロス点を押さえることは九州の急所を押さえることである、との先生のご意図もあることでしょう。
 そして福音の第一点は「救い」です。これを「平安」とか、「幸福」とか表現しないで、「救い」とぶち上げたところに、先生の勇気を感じます。
 そして「癒し」です。「癒し」という言葉は最近市民権を得てきて、逆に意味が軽くなって来ています。そこで教会では、はっきりと「病気の癒しなのだ」と伝えるべき時代になってきていると思います。救いと解放という言葉の間に「癒し」を挟んだことにより、道ゆく人の注意を引きますので、「これは良い」と私は手を打ちましたよ。少なくとも、「ただの癒しではないな」と疑問を抱かせます。
 特に「解放」という言葉はそうです。実は多くの人々にとって「解放」という言葉は意味が汲み取れないかもしれません。先に書いた階級闘争の用語しか思い出せないかもしれません。多くの人にとっては、この言葉はクイズのようなものでしょう。
 そして、この看板に引かれて教会にお出でになった方々も、罪や、心配や、不安や、世のあらゆる思いわずらい、病気、不和からの解放とまでは分かっても、更に大きな、広い「解放」については、分かりにくいかも知れません。(また、こうした力を神様がご自分の手から「解放されたのだ」という逆の語法もあるわけです)。
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 信徒の皆さん、ここで思い出してほしいことがあります。それは地域の解放、土地の解放です。リバイバル新聞9月9日号の第一面トップ記事を見て下さい。そこには「土地の癒し、パプアでも」とあります。トランスフォーメイションとも書いてあります。簡略してトランスといえば、普通、変圧器をさしますが、フィジーや、ウガンダ、今回はパプアでも、土地に霊的変圧が起こっていると見たいのです。南洋の島々で断食と悔い改めの祈りをもって、主のお取扱いを祈る時、大奇蹟が起こるのです。人々の姦淫は悔い改められ、麻薬やばくちの常習は止み、魚や、穀物、果物の成長、収穫が格段の変化増収、海で取れる魚が大型化してきた、等々。土地の性質が変わってしまうのですね。
 これこそ、土地の解放というべきです。人の心も、経済も、政治も、人が生き、人が住むための必要な環境すべてを神様が見てくださる、無くなったものを回復してくださる。回復どころか、以前の倍にも、倍々にも返してくださる。それがトランスフォーメイションです。皆さんのご祝福を祈ります、先生がたのご祝福を祈ります。《く》

〔あとがき〕
明日は、クロスロード・ゴスペル・チャーチの献堂式です。式辞に中野渡先生が招かれています。私も期待をもって参加させて頂きます。皆さんも祝福のご加祷をお寄せください。永井先生の鳥栖開拓の本格的第一歩です。▼ハーザー(HAZAH)10月号が来ています。今月号は特に読書に慣れない方々にも読み甲斐のある好記事が多い。巻頭言の「朝青龍をいじめるな」などハッと思いますね。手束先生の「東京裁判の欺瞞」在米のイシハラ氏の「日章旗・君が代」、田中菊太郎先生の「キリシタン殉教の道を辿る」等必読です。ハーザー社主ヨエル氏のご健康を祈る。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-09-11 14:08 | 日岡だより
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