No.290 信仰の基本を学ぼう 2007.7.22

信仰の基本を学ぼう

 茨木キリスト福音教会の教師をされている米川明彦先生が、新しい本を出された。「使徒信条と主の祈り」という、題名だけを聞くと面白くない本に思えるかも知れないが、どうしてどうして……。
 先生は博士号を持っているれっきとした学者だが、俗っぽい世間の言葉が好きだ。言わく、「読んでニンマリ 男と女の流行語」という著書もある。
 かつて一度、当教会にも来られて、お証しと、ご講義を願ったことがありますね。
 先生のお証しと言えば、まず「耳の不自由な女性との結婚」である。けっして、いわゆる障害者への憐憫からではない、本当に愛されて求婚された事情をお聞きしているが、更に聞いて微笑ましいのは、いつも奥様とは熱烈なる愛の会話が手話でなされるということです。
 そして上達された手話の特技(?)をもって、「日本語-手話辞典」を完成された。こんな辞典は世界にも他に無いのではないか。
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 さて、この「使徒信条と主の祈り」という本のことだが、これがすばらしい。ちょっと聞くと、堅苦しい教理の解説だろう、「取っつきにくいな」と思うだろうが、そうではない。
 先生の日本語(!)は正統派だが、そして分かりやすい。「教理学などイヤーン」という人も、すぐ理解出来る。しかも、学問的にはピシッと正しいのだから、安心です。
 「使徒信条と主の祈り」は信仰の基本です。クリスチャンの信仰の背骨をチャンと真っすぐ立たせてくれる教科書、みなさん張りきって、この本を買って下さい。釘宮先生、さっそく米川先生の真似をして面白い講義をしてさしあげるつもりです。《く》


「癒しの賜物」について

 私たちの神様から頂いている信仰、確信、霊的賜物について、時に応じてはっきりと大胆に人々の前で告白し、宣言すべきなのです。
 なんだか厚顔すぎるような、慎みのない礼儀知らずの人間のように思えて、躊躇したくなるが、必要な時には思い切って自分に与えられている霊的賜物を誇示することは、その賜物の与え主なる神様への恩の報いでもある。大いに良いことなのだと思ったのは、最近の私の経験であった。
 先だって、ある教団のセミナーに参加した。その際、ある分科会に顔を出した時のことだ。
 ある先生が、「よく教会で『癒し、癒し』と声高に言うけれど、あれは少々問題じゃないか。病気だって、時には神様の御心だから、一概に悪いものとは言えない。もっと落ち着いた、真摯な福音宣教の方向を考えるべきじゃないか」というよう意見を語り始めた。
 癒しを前面に押し出した過度な伝道のやり方を批判したものだろうか、と私は思って聞いていたのだが、その先生のシニカルな、やや否定的なお話がなかなか収まらないので、私もたまらなくなって、つい口を出してしまった。同席の信徒のみなさんに悪い影響を与えそうな気がしたからである。
「先生ねえ、少し差し出がましいけれど、ご免なさい。私も癒しということが福音の中心とは思いませんが、しかし大事な要素だと思います。少なくともイエス様のご生涯を拝見すると、癒しはイエス様の宣教の大事な一部ですよね。
 私は『癒しが無ければキリスト教ではない』、というようなことは一度も言ったことはありませんが、しかし求められれば必ず癒しのご奉仕をしています。口はばったい言い方でしょうが、私は神様から癒しの賜物を頂いていると確信しています。私は決して病人の方に手をおいて祈って差し上げて10人が10人癒されたなどとは申しません。10人祈って差し上げて明確に癒されるのは2人か3人しかないかも知れません。それでも私は自分は神癒伝道者としての尊い賜物を頂いていると確信を持っているのです。
 ですから、申し上げますが、癒しは尊い神様からのギフトです。これを控え目に遠慮して、『有っても無くてもよい』もののようにいうのは反対なんです。繰り返しますが、私は神様から賜物として癒しの力を頂いているのです。私は神癒伝道者としての自覚を失ったことはありません。」
 こう言い切ってしまって、少々言い過ぎたかなと顔を赤くする思いをしたのも事実ですが、また気分がスキッとしたのも事実です。その先生もバツが悪そうに黙っていましたが。
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 この旅行から帰ってすぐ、熊本のN姉から「愛猫シャローム君が便の出が可怪しくて心配です、祈ってください」とおっしゃる。私は半ば吹き出しながら、祈ってあげた。2、3日してすっかり癒されたと報告がありました。
 次は、別のN姉がやって来た。胸のあたりが痛いという。肋骨か筋肉か分からないが痛いのですと言う。手を当てて祈ってあげたのだが、私は又、「病院に行ってお医者さんに見て貰いなさい」とも言っておいた。
 2、3日して、そのN姉のご主人が来た。腰が痛いという。腰に手を当てて祈ってあげた上、これまで痛かった腰のあたりの動きをためしてもらうと、「不思議ですねえ、もう直っています。」と言う。「本当かい」と念を入れて聞くと「はい、直っています」と言いながら、「ここだけが、ちょっとまだ痛いです」と、大腿部のほうを指差します。
 そこで私は、そのまだ痛いと言っている個所に私の指を突っ込むようにして祈った。すると、一瞬に痛みは消えたと言う。
 そこへ、2、3日前、医者に行ったはずのN姉が私のところに来て言う。
「先生、例の胸の痛いところが治ったようなので、医者に行って『痛い所なおりました』と言ったら、お医者さんが言うのです、『それどころじゃなかったんだ。痛かったのはともかく、実はあなたの病気は血液の病気だったんじゃ。それが治っているんですよ。こんなに簡単に治る病気じゃない、不思議だよ。私は、すぐにも学会に報告しなくちゃならん』と言われました」と。
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 こうしたことが連続して起るので、私は驚いてしまった。そして、一つのことに気がついた。
 例の某分科会で「私は神癒伝道者です」と発言したことだ。滅多にあんなことを会合で言う事はないのだが、あの時だけはどうしたわけか、堰を切ったように私は言ってしまった。
 しかし、ああいう自己確認というか。自己宣言というか、時には遠慮なく大胆に発言することは良いことなんだな。あれが、ここ数日の強力な癒しの効果の発現の原因ではなかったが、と気がついたことです。
 本文の冒頭に書いたことですが、自分の自慢、誇りではないのです。神様から頂いた賜物と、その恵みについて、はっきり告白することは、神様の誉れのため必要なことなのです。また神様への感謝と証しとして、しっかり表白すべきことなのです。これが又、私たちの信仰の力をはっきり表すためのコツでもあるのです。コツという言葉は平俗すぎて神様に申し訳ないですが、そのように確信させられたのでした。
 神様から与えられている恵みの賜物を、大胆に人々に向かって公開し、自分でも確認する、これは折角いただいた神様の恵みをいたずらに内緒にせず、人々に示して多くの神の民のための共有財産とする、これは非常に大切なことなのだ。神様から頂いた賜物を無為に眠らせず、しっかり神の民のために役立てるのだ、そういうことを教えられた今回の経験でした。《く》

〔あとがき〕
はじめに書きましたが、米川明彦先生の「使徒信条と主の祈り」と。宮崎県日之影町で大胆な開拓伝道をされて、今回新会堂を建設された城尾マツ先生の「日の陰に光あふれて」(林黛子著)が教会に送られてきています。お買い求めください。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-07-24 15:49 | 日岡だより
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