No.285 私の神学 2007.6.17

私の神学

 これは「私の神学」である。わざわざ「私の……」というのは、いわゆる「神学」と言えるほどのものではないからである。私が多少の本に学び、また先輩がたから受け、あるいは私自身、聖霊様の啓示を受けて(と思うのだが)、その結果、私のうちに醸成されてきた、私の小さな「神学」なのである。人様にお見せするほどの価値はありはしないが、とにかく自分のために一応文章化してみた。以下のとおりである。
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 キリスト教の神学として、だれでもそうだろうが私の最も気になるのは「三位一体論」と「神の予定(選び)」の神学である。これは要するに人間の論理的頭脳では、とうてい万人が納得する結論の出るものではない。だからと言って自分なりに納得できるよう、まとめてみたいのが人間の心理である。今回は「三位一体論」に限って書いてみたい。
 さて「三位一体論」だが、ベニー・ヒンの本に、こんな風に書いてあったと記憶する。簡単に書けば、「(1)父なる神が計画し、命令されたことを、(2)子なる神が実行し、(3)聖霊なる神が、それを私たちに教え、かつ当てはめてくださるのである」と。これはなかなかうまい。
 子なる神のお仕事の第一は天地の創造であった。第二の大いなるお仕事は人類の罪の贖いである。第三はご再臨と新天地の恵与である。これを計画され、命令されるのは父なる神であり、これを実行されるのは子なる神、キリスト様である。この偉大なる御業を私たちに悟らしめ信じせしめ、特に罪の赦しと贖いの結果を私たちの人格に事実として当てはめてくださるのは、実に聖霊様である。
 ところで、私が多少ベニー・ヒン師と違うのは、私はベニー・ヒン師ほど父と子と聖霊さまの三者を個体的に区別しないことである。父も子も聖霊も、個別にお三方とも体を持っておられるような形でベニー・ヒン師が語ったことがあるのを私は覚えているが、私にはそうは思えない。
 元々、「三位一体論」というが、英語では「トリニティ」で「三論」である。日本語では「三位一体論」と訳しているが、その「一体」というのは、「夫と妻は一体である」という聖書の言葉のように一体なのだと説明する。しかし、多くの方の言う「三位一体論」の実質は、実は「三体一位論」と言うべきなのではないか。
 「夫と妻」が一体であるというのは、その精神的一致をさすものであって、それぞれ夫と妻はまったく別の固体である。そういう風に父なる神と子なる神とは別の存在であるが、(心や感情や意志や霊性において)一致するという状態で「一体」であるという説明には私は同意出来ない。聖霊様が父なる神や御子と全く別個の存在として存在され、(そして心や感情や意志や霊性において)一致するというような説明は一種の循環論法的矛盾である、と私には思えるのだ。
 私はこう思う。父なる神様はこの物質的宇宙と霊的宇宙を含めて、そのすべての全体が父なる神様の体であると言えるのではないか。それをしかも内包して唯一の全き存在者、つまり「在りて有る者」であられるお方が父なる神であると私は思う。
 聖書は言う、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ4:8)と。その中に万物も私たちもいるのである。だからこそ「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17:28)とも聖書は言うのである。
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 さて御子なる神は、かつてマリヤをとおして地上に生まれてユダヤにお住みになったイエス様である。現在、イエス様は天に帰られて、そこで父なる神の中心部に居られる。中心部とは位置ではなく、神様のご意志のことである。聖書で、ステパノが「イエス様が父の右に立って居られる」光景を見たというのはそのことだと思う。
 旧約聖書にヤハゥエ(文語訳・エホバ、口語訳・主)として人の目に見えるように現れて下さる神は、しばしば新約以前のキリストなのだと私は思っている。これを先在のキリストと言おう。旧約聖書に書かれているヤハゥエの神がすべてがキリストというのではないが、アブラハムに現れたように、まざまざと目に拝見でき、かつ互いに語り、料理さえも食べてくださるヤハゥエの神様は、ガリラヤ湖のほとりで弟子たちと相語りパンや魚を食べてくださったイエス様と同じ方であったと私は思っている。
 ヨハネによる福音書の冒頭に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とある。この「言は神と共にあった」と訳してある所は、原文に即せば「言は神に向かって(相対して)居られた」と訳したほうが適訳だろうと思う。大抵の翻訳は「共に」英語では "with" と訳してあるが、本当は英語で言うなら "for" と訳したほうが良いのではないかと私は思っている。
 つまり、御子なるキリストは真に最初(万物創造の初めの、それ以前)から父なる神と共におられ、互いに語り合って来られた言(コトバ)なる方である。その様相に最も似た存在様式が人間の霊に対する魂の関係である。「人間は神の似姿として造られている」という御言の一切の照明がここにある。
 人間の意識を内省すると、霊性ともいうべき深い意識と、外なる心とがあって、この二つが「互いに訴え弁明し合う」(ローマ2:15)関係にある。人間の意識は二重構造になっており、かつ互いに言葉をもって語り合う仲である。これが他の動物とまったく違うところである。(この人間の中心なる霊が神に背き霊的自由と高貴さを失い、愛と正義に従う意志と能力を失ったことがアダムとエバ以来の遺伝的罪の結果であり、それが真に霊の「死」である。この霊を新生させ得る方こそイエス・キリストであり、この方を信じる以外に天下に救いはない。)。
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 このように神様は、その内がわにおいて父としての御心と御子とが語りあっている御存在である。「語る」という機能こそ、最も人格らしい機能である。その語り合う言葉の結果、御父と御子の全く一致した思想や情緒や意志が現われ、動き始める。そこに人格としての聖霊様が在るのである。聖霊様は元来、ご自分の存在を隠すご性質があって、その存在様式や個別性をはっきりさせないところがある。それが聖霊様の謙遜なる個性である。聖霊を単なる神の感化力、影響力であるとする異端的解釈にも、同情して言えば無理のないところがある。
 以上、私の述べたところは、単一の神が三つの顕現様態を持っているとする(たとえば、「水は液体の水と固体の氷と気体の水蒸気とに姿を変えるが実体としての H₂O は一つである」と言う)のとは違う。それかと言って、三つの神に分かれてはいるが、夫と妻が一体であるというように一体である、というのでもないのである。
 とは言え、神学は己が信仰の整理のために自己形成してみるだけのことであって、神学が厳密に己が信仰を規制するものではない。他の人と互いの神学が違うからと言って、無用の論争をしたり、まして仲違いするために神学形成を試みるのではない。却ってイエス様をキリストとし、その御贖罪のわざを信じる信仰において必ず一致できるはずである。
 「いざ、父なる神を賛美せよ。子なる神を信ぜよ。聖霊の神に心を開け」。
   (1996年6月23日週報掲載 《く》)

〔あとがき〕
今回の本文は11年前のものです。「私の神学」などと大上段ふりかぶったような標題で、恥ずかしいですが、思ったままの私の信仰告白と言えるでしょうか。11年たっても、私の信仰は少しも変わっていないということの証しでもあります。当然のことながら有り難いと思います。すべては主様のご恩寵であります。▼吉田一行兄から大量の郵便切手のご献納がありました。すべて郵政省発行の記念切手でして、景色のよいもの、国際交流もの、アニメもの等、多彩であります。元郵便局員だった同兄のお得意の選別でありまして、今後の当教会よりの発送郵便物に貼付されると思いますので、お楽しみに。▼かつて私は「信仰を築き、成長させる10則」の6番に「信仰の良書を読みましょう」と書きましたが、事実、信仰の良書を読むことは大いに大切です。そこで図書の閲覧をお薦めする意図もあって、私の信仰図書はほとんど教会の図書室や閲覧台に持って来ました。しかし、「本は借りて読めばよいのだ」という安易なことにならないよう、注意して下さい。なるべく自分の本を持ちましょう。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-06-19 13:51 | 日岡だより
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