No.284 私の鈍感力? 2007.6.10

私の鈍感力?

 先週の大分地方の地震は、大分に住む人々はもとより、県外の方々、特に遠地の方々にも大変ご心配をおかけしたようで、心苦しかったです。
 私は特に鈍感なのか、「ほら、今揺れているでしょ」と言われるまで、もちろん余震の時だが、私は一向に感じなかったのです。
 最初の時は、ちょうど夜半の12時ごろだったが、私は椅子に腰かけて居眠りしていた。そこへ娘のせつこが来て、「お父さん、地震ですよ」と言われた時も、「へえ……?」と言うばかり。
 今回の地震は余震が何度もあるので、市民や県民の皆さんに心配をかけたらしい。私は平気というより、感じなかったのです。
 せつこに言わせれば、「お父さんは耳が遠いから、家がミシミシ音を立てるのが聞こえないので、感じないのよ」という解釈だったが、私はこれには感心した。
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 なるほど、周りから入ってくる雑音は恐怖感を与えることが多いということです。世間では無駄な親切心や批評も多くて、それが無用な恐怖感を与えることも多いようです。
 私も青年時代には、親族から、近所の人から、教会の信徒の皆さんからも、ご忠告があって、迷ったこと、不安になったことが幾多もありました。
 神癒伝道を始めた時など、大変でした。実は、当方も内心で恐れている初心の頃ですから、おびえてしまいます。
 そういう時には、神様のふところに飛び込むほかはありません。イエス様がおっしゃるとおり、戸を閉じて隠れたところにはいり、祈って神様のお言葉をじかに聞くまでは平安はきません。《く》


震源地を確かめよ

 ともあれ、大分は案外地震の多いところです。私が少年時代から住んでいた家は、古い信者さんは知っていますが、軒は低くて大黒柱などドッシリした古びた家でした。大正年間に父が買ったのです。
 父が土地の人から聞いた話では、100年ほど前に大きな地震があって、その直後に建てた家なので、地震に備えて、大きな材木を使い、2階などは背をかがめて歩かねばならないほど天井も低く作ってあったのでした。
 私が小学校のころ、何度か地震を経験しました。向かいの家がユッサユッサと横に揺れるのを見た覚えがあります。その時は、一家全員そろって裏にあったトタン葺きの作業小屋に寝たものです。
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 今回の地震は震源地は大分県中部、深さは10キロ下だとありました。大分県中部というのは誤解しやすい気象台の用語で、実は大分市、別府市などを大分県中部というのです。
 ちょうど、一年ほど前、昨年の6月11日に同じような地震が起こりました。その時は震源地は庄内町平石とあります。当教会の信徒の中尾姉のお宅の近所です。今回は、そこまで震源地を特定していませんが、注意したいのは、その時の震源地の深さは140キロでした。今回の地震の深さはわずか10キロです。
 昨年の大分地震の特徴は震度は今回よりやや強い程度ですが、その地震の範囲は遠く岡山や四国の今治あたりまで及んでいたということす。
 今回の地震はわずか大分市、別府市にとどまっています。これは、もちろん震源地の深さによるのでしょう。震源地は140キロにもなれば、その震動は中国、四国に及ぶ。震源地が僅か10キロだと、揺れたのは大分市と別府市だけ、ということです。
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 さて、御言葉を開きます。エペソ人への手紙第4章23、24節です。
  「心の深みまで新たにされて、真の義と聖とを
  そなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」
 この翻訳は口語文のほうですが、「心の深みまで」という個所を、新改訳では「心の霊において」と訳しています。これは新改訳のほうが正確です。
 私はしばしば人の内部構造を同心円の3層図に描いて、外側から「肉、心(魂)、霊」と言うように説明します(第一テサロニケ5:23参照)。その意味でも「心の深み」という表現は適切だと思います。
 多くの場合、人の罪は肉で行われます。この場合、肉という言葉は「体」を指し、「肉性」をも指します。体と肉性をつなぐものが「言葉」です。
 人の魂の奥において、罪をいだく場合は、まだ感性的であって、意識化されていません。意識化されると、それは言葉になります。
 心の中で「あいつを殺してやろう」と思いが言葉として明確化されると、それは次の計画や行動決心を呼び起こします。そしてついに罪の思いが現実化するのです。
 この罪を起こす震源地こそ、深い深い、キリスト教の教理で言えば、原罪です。人間の始祖が神の前に犯した罪、つまりアダムが神のお言葉に背いた罪、その罪の性質が遺伝的に、その後の人類一般に染みついている。それから逃れ得る者は一人も無いのです。
 まことに人間の側からみれば、「それは不条理です」と言いたくもなるが、また人間の真実な自覚として承認せざるを得ない実感がある。
 つまり、太宰治でないが「生まれてきてすみません」というやつだ。
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 この人間の罪の震源地に突っ込んで、この罪の原点を爆破しようとする方がキリストです。
 最近、新聞で戦争中の魚雷艇の解説記事を読んだ。これは飛行機によるカミカゼ特攻の水中版である。魚雷という戦艦に向かって発射するスクリューつきの爆弾がある。その魚雷に人間が乗って人間魚雷となって敵艦に突き込む、戦死必至の兵器である。
 こうした兵器を日本人ならやるだろうと、大正のころには既にドイツあたりでは、大衆雑誌のキワもの記事になっていたこともあったそうだ。
 この人間魚雷、戦争の当時、「回天」と呼んだそうだが、この人間魚雷に志願した若者たちの記事が最近の「産経」に連載されていた。
 故国を守るために、一身の命を献げて、この作戦に参加しよう。まったくの愛国の犠牲精神であるが、こうした犠牲精神は人間だけのものであろう。動物でも子を守ろうとして身を投じる親は時に無いことは無いが、しかし人間のようにこれは犠牲だとの意識を持って死地に赴くものはいない。人間は本能的に死を恐れないのではない。意志的に死を恐れず、身を献げるのである。
 こういう犠牲精神は人間特有である。そして、これこそ神の形に造られた人間の持って生まれた特有の精神である。キリストの精神である。
 人間は恐怖心、自己保存本能、いろんなものに災いされて、この自己犠牲本能はしばしば薄れやすいし、また砕かれ、喪失しやすい。しかし又、この性質の顕現を美わしく思い、尊敬し、これを称えます。
 これを物語として聞くだけなら、涙を流して感動する。この該当者になることは決して好きではないが、しかし、祖国のため、また同族のため、いや実は自分の信じる信仰のためには喜んで死ぬ。そういう殉教者は歴代のキリスト教史に数多く、現れています。
 そして、何よりもイエス様ご自身、人類の罪のあがないのため、犠牲の死を十字架上で遂げられたのである。
 愛する御子を十字架上に見殺しにする神様の愛こそ、この最大の犠牲の原点である。霊的宇宙のすべての基本土台はこの神様の愛である。この父なる神の愛を褒めたたえましょう。《く》

〔あとがき〕
最近、いささか体得した実践的信仰の秘訣の一つは「反復告白」です。あなたの獲得したい目標を簡単な言葉にまとめ、それを連呼するのです。世の中の人でも、たとえば全国最高納税者の銀座の斎藤ひとりさん、なんでも千返、言葉にして口で言いなさい、必ず、獲得できると言われる。「千返?」とびっくりなさる方に、早速手に持ってカチカチと数を数える、あの数取り機を買って来て実行なさるようお勧めします。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-06-12 11:13 | 日岡だより
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