No.282 いつも礼拝していなさい 2007.5.27

いつも礼拝していなさい

 ノーベル・ヘイズという先生の「いつも礼拝していなさい」という本と、もう一つ同じ著者の「こうして強くなりなさい」という本を読んだ。
 早くから来ていた本だが、今回はじめて開いたのである。読んで、本当に恵まれた、そこで次の日の朝の祈祷会で早速「いつも礼拝していなさい」というメッセージをしてしまった。
 実は祈祷会で長いメッセージをして、信徒の皆さんの祈る時間も無くしてしまうのは、本来おしゃべりの私の悪い癖である。これは私の少年時代から青年期まで通ったそれぞれの教会の祈祷会がそんな風だったので、祈祷会とはこんなものだと思いこんでいたのである。
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 「先生、祈祷会というけれど、私たちの祈る時間はありゃせんに……」と、大分弁で抗議されて、今更のように、「ほう、そうかいな」と私は気がついて、祈りの時間をメッセージのあとにホンの少し時間をあけるようになったのだが、まだまだ十分の時間を空けていないので、信徒諸君に不満が滞積しているかもしれない。
 ところで、そこへ「いつも礼拝していなさい」というメッセージである。席にすわる信徒諸君は呆気にとられたかもしれないが、私は祈祷会に改革の時がきたという気がしていたのである。
 祈るという姿勢には、「求める」という意欲が強いと思う。ところが「礼拝する」という姿勢には、ひたすら主を仰ぎ望む姿勢が伺える。これは素晴らしいと私は思ったのである。「求める」という姿勢はやや控えても、主を仰ぎ望む礼拝をしたい。これが今回の私の教えられたことであった。《く》

 
大風呂敷を拡げよ

 世界に日本の風呂敷を紹介してくれているモッタイナイ運動のワンガリ・マータイさんに、日本人の一人として感謝したい。
 そう言えば、昔、日本から故国に里帰りする宣教師がたは、日本からのお土産には風呂敷が一番です、と言っていた。
 金はかからないし、重くもない、かさばらない。船に乗って太平洋を越えて帰る先生がたにとり、もっとも手軽で、値段も安いし、何よりも日本趣味があって母国に待っている友人たちに喜ばれる、こんな便利なものはないと言うのである。
 風呂敷は昔、ひらづつみと言ったらしい。大小を兼ねて包みこんで、運んだり、ちょいとの始末に使える。便利である。江戸の中期、銭湯が繁昌し出すと、このひらづつみが役立った。
 さしてきれいでもない銭湯の着替えの床の上に衣類を脱いだり、着替えたりする。その際の衣類を拡げる下受けにこのひらづつみがホンに都合が良い。遂に風呂屋での下敷だから、風呂敷と呼ぶようになった。
 昔の子沢山の時代、おかみさんが2、3人の子どもを引き連れて銭湯に行く様子を想像すると、想像するだけでもその大変さが分かる。口やかましくわめいたり叱ったり、お尻を叩いたり。子どもは子どもでキャッキャッと騒ぎまわる。
 その中で脱いだり、着たりの衣類の一時の置場として足もとに敷いたひらづつみ、それが風呂敷である。連れてきた子どもが多ければ、それだけ風呂敷も広くなる。大風呂敷である。
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 その大風呂敷が意味を変えて、出来もしないようなことを言ったり計画したりの「大言壮語する」「ほらをふく」というような意味に使われ始めたのはいつの頃からか知らぬが、新聞記事で大見出しを飾った第一人者は後藤新平である。
 先日の産経新聞によると、台湾の李登輝前総裁がこの5月30日から6月9日まで来日するそうである。その目的は「学術・文化交流と『奥の細道』探訪の旅」と銘打っているそうである。日本を愛し、日本をよく知っている李登輝さんらしいご希望である。
 ところで、今回は一つは後藤新平賞第一回受賞者に李登輝さんが選ばれ、そこで李さんの来日となり、そして、李さんが「後藤新平と私」という記念講演を行うのだそうである。されば後藤新平とは、そも何者?ということになる。
 後藤の年譜を見ると1898年に当時日本の植民地であった台湾総督府の民政局長になっている。上司の総督は児玉源太郎だった。よい上司を得た訳でもある。
 新平氏は、台湾銀行設立、砂糖や樟脳などの産業開発に力を尽くす。そのあたりが台湾の李登輝前総裁が「後藤新平と私」という因縁であろうが、詳しいことは私にもよく分からない。
 しかし後藤新平という人は「大風呂敷」だというので有名だった。たぶん、台湾でもそういうニックネームが全島に広がるような仕事振りだったのかと思うが、そのニックネームが日本中に知れ渡ったのは関東大震災である。
 彼はすでに内地に帰って(台湾や朝鮮などにくらべて本州は内地と呼ばれた)東京市長になっていた。そこへ関東大震災だ、彼は乞われて政府の内務大臣、兼帝都復興院総裁となった。
 この時の関東大震災の被害から東京を復興させるべく彼らしい手腕をふるったわけだが、その時の計画があまりに野放図すぎて、人々から「後藤新平の大風呂敷」と言われたのである。
 少し後藤新平のことを書き過ぎたが、わが大分のことを題材にしたい。
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 終戦後、大分市の市長は後に大分県知事になった木下郁さんである。私は誰の紹介状も、私の名刺すらもない、秘書課を通さず、いきなり市長室に乗り込んだものである。
 そして「戦災孤児が寝る家、屋根さえあれば良い、陸軍が残したボロ兵舎の残骸でよい。世話してください。それだけでよいです。金も食料もいりません。自分で調達します」と頼んだ。
 木下さんは、この無鉄砲な私を非常に喜んでくれた。「あんたに会えて、戦後の大分市の福祉事業をやる自信が出来た」、とさえ言って喜んでくれたことを覚えている。
 そして、「さっそく厚生課長の立木勝君にあって会ってくれ。この人は東京市で福祉の方をやったし。なかなかの人物だ。あんたの相談に乗れるよ」と言ってくれた。
 事実、それ以後、私を強力にバックアップし、何くれと無く世話してくれたのが、この立木さんで、後の大分県知事。私の生涯の知友というべきか、良き先輩となってくれた。
 ところで、先にあげた木下郁さん、この方は戦後の地域行政として無理解の鬼のように言われながら、戦後の戦災の空き地になかなか建築の許可を与えなかった。
 大分駅前をはじめ、そこかしこに空き地が残っていた。そして、道路だけはデカイものをつくった。今の昭和通りなど、40メートルの広い道路だったから、批判が起こった。
 「今から農業立国せねばならぬ日本の、しかも田舎県の大分市になんであんな大きな道をつくるのか、飛行機の滑走路にでもする気か、ばかばかしい」と、当時の地元の新聞が社説で堂々と叩いたことであった。市民の多くはうなずいた、「そうだ、そうだ」。
 あの時の大分市の復興基本計画は今見てもすばらしいものだったと思うが、人々には遠い夢のように思えた。家も立てさせず。空き地ばかり残して、何が復興だ。木下市長の大風呂敷に見えた。
 戦後の混乱期にむやみやたらに家を建てさせたら、どんなにゴチャゴチャしたまとまりのない都市になったかも知れない。しばらくの辛抱、その後に戦後最初の市長選挙で上田保さんが出て来た。
 この上田さん。今度は「家を建てろ、家を建てろ」で、景気がいい。高崎山のサルを呼び出し、水族館を造り、大成功。ただし、竹のロザリオを作って世界相手に売ろうとしたが、これは失敗。しかし、ともかく大風呂敷。こうして戦後の大分市は出来上がった。
 ともあれ、私心無き、強き、良き志のあるところ、そこに立てられた大風呂敷ははなはだ良かったと、今、私たちは大きくうなずいて感謝するのである。
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 さて、最後に私の大風呂敷。私は願っている。この日本国の国民のすべての人がクリスチャンになるのを。
 そんなことは夢のまた夢。出来る筈はない、と人は言うだろうし、私自身も心の底でそう思っている。しかし、私は自分を励まして「日本はクリスチャン国家になるんだ」と心で言うのである。
 そうなれば、もちろん私の「日本絶対非武装、非戦平和国家論」も実現する。そうなると、日本は世界のカントリーになる。
 日本は、神様のため、福音のため、世界の幸福、平和のための祈りをもって立国する。世界中の人たちをこの日本に招きたい。そして、キリストの福音を語り合いたいし、その現実化を見たい。
 製鉄工場も自動車工場もコンピューター工場も何もない日本。ただあるのは緑の森と、田園と畑、牧場。そこに温かな信仰の交わりがある。人々を招き入れ、団欒の時をもてなす。どこの家でも見知らぬ外国の人を喜んで迎え、温かく食事の交わりに招き入れる。
 どの家庭でも、そこには隠れた招待主イエス様が居られる。多くの外国からの客人たちは喜んで、又、友人を連れてこの国に来たいと言う。こんな国には戦争など起こりようもない。
 これが私の大風呂敷です。誰も笑って信じてくれませんが、でも、あなたは信じて下さい。
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 阿呆なことを書き過ぎたと思って閉口しているのだが、今更引っ込みがつかない。書き直す時間の余裕もない。このまま恥をかいてもよいわなと、決心してこの稿を閉じる。《く》

〔あとがき〕
先月、4月29日の由布院一泊セミナーでは、私は元気が良かった。今、考えると、我力を出し過ぎた。100倍の集中力で祈ろう。100倍の集中力で語ろう、と頑張ったのである。
 それだけの成果はあったと見るべきだろう。しかし、その直後からの私の疲労はひどかった。人間、こんなに疲れるものかと思った。約1か月、この疲労と無力感は続いた。
 ああ、我力は出すものではないな。「頑張りは信仰ではない」と言った某先輩の言葉は本当だったな、と心に染みたものです。今、やっと疲労が抜けてくれています。第一頁に紹介した「いつも礼拝していなさい」のすすめに従ったからです。
 自力でがんばらないで、いつも神様を見上げていよう。そして、神様を賛美する。イエス様を仰ぐ。イエス様の御血潮を頂く。聖霊さま、私に満ち満ちてください、と叫ぶ。
 今回は、いわゆる「破れ、かぶれ」で書きましたが、これが85歳の老体、今後の生き方かも知れませんね。もう、人並みに生きることはむつかしいらしい。95歳で現役で活躍している日野原先生を見ると、うらやましいです。残念だが、仕方ない。私は私だ。
 この「日岡だより」もぼつぼつ姿を変えるのかな。いやいや、姿を消し、クギ先生もどうなるか分からん……、ということになるかな。
 でも、そうなっても神様は変わらない。イエス様は変わらない。福音は変わらない。私たちの信仰も希望も変わらない。主にあって頂いている私たちの愛も変わらないのです。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-05-29 16:03 | 日岡だより
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