No.281 キリスト教は聖霊教である 2007.5.20

キリスト教は聖霊教である

 少し乱暴な言い方だろうけれど、キリスト教は聖霊教である。キリスト教の初めっから終わりまで聖霊教である
 来週が、聖霊降臨日(ペンテコステ記念日)だから、こう言うのではない。
 初心の方は、「私はまだ異言の恵みを受けていないから、聖霊様は私には関係ありません」というかもしれないが、それは誤解です。
 あなたは気がついていないから、そんなことを言われるのだが。あなたが最初イエス様を信じた時から、聖霊様はあなたに働きかけておられるのです。
 聖書にこうあります。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことができない」(第一コリント12:3)と。
           *
 実はもっと早い。早い、早い。もっと早い。天地の造られる前から、私たちは「天上で霊のもろもろの祝福をもって選ばれていた」のですから。エペソ人への手紙第1章3、4節を読んでください。ちゃんとそう書いてある。
 だって、ペンテコステの聖霊は天におられるイエス様から地上の120人の弟子たちに下ってきたのです。聖霊さまは天に満ち満ちておられます。
 だから、私たちが召されて天に帰る時、私を支えてくださるのは聖霊様、そして天に帰ってみれば、父なる神様と御子イエス様の御前で、そこで私を包まれる方はやはり聖霊様です。
 最初に述べましたとおり、初めっから終わりまで聖霊様に導かれ、包まれて、満たされて、私たちは全生涯、天の御国まで生き通すのです。
 まさにキリスト教は聖霊教です。《く》


後の雨を、永遠のリバイバルを

 イスラエルでは秋の雨が10月から11月にかけて降る。これを前の雨という。この雨が降ってから大麦や小麦の種をまく。
 春の雨は3月か4月に降り、豊かな収穫をもたらすから、これを祝福の雨と呼ぶ。預言者ヨエルはこう歌う。

  シオンの子らよ、
  あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。
  主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、
  またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、
  前のように、秋の雨と春の雨を降らせられる。
               (ヨエル2:23)

 すごい預言である。ヨエル書は旧約聖書のなかでも僅か3章しかない小預言書であるから、ついうっかり軽視しやすい。しかし、使徒たちはしっかりとこの預言者を思い出したのです。あのペンテコステの日に……。使徒行伝2:14~21を開きましょう。ペテロの大説教の冒頭が残されている。そこにヨエルの預言が引照されている。

  神がこう仰せになる。
  終わりの時には、
  わたしの霊をすべての人に注ごう。
  そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、
  若者たちは幻を見、
  老人たちは夢を見るであろう。
          (使徒行伝2:17以下)

 先に引照したヨエル2:23第3行、「主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い」という御言葉は正に預言的で、この御言葉の真の意味を、語るヨエル自身も理解できなかったであろう。
 これこそ預言である。預言の預の字は預金の預である。これは「預ける」とか「預かる」とかいうように使う言葉だ。聖書で預言と言う時、それは予言ではない。予言を含むことはあるが、それが重要なのではない。ただ天の父なる神様の御言を神様からお預かりして、この言葉を代理人として語る。それが預言者である。つまり神様のメッセンジャーなのである。
 なお、ここで「義とするため」という原語を「義の教師」と訳し、この言葉をとおしてキリストを予測する強引で有力な解釈もあるのだが、私はそれを取らない。しかし、この「あなたがたを義とするための秋の雨」と言うとき、ここにキリストの十字架の御業を想起するのは私も同様である。
 つまりヨエルはここで、知ってか知らずにか、とにかく、イエス様の義認の御業を予言しているのである。これを私は凄いというのである。
 そして更に、「後につづく豊かな雨、春の雨」を語ることによって、あのペテロをはじめ120人の弟子たちを歓喜させたペンテコステの豊潤な聖霊の大雨を予言しているということに目を見張るのである。
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 さて、ここでひるがえって、聖書以後のキリスト教の歴史を紐ときたい。前述のペンテコステの恩寵は初代教会の驚嘆すべき伝道の果敢な成果をもたらし、ついに全ヨーロッパを席巻した。大ローマ教会を造りあげ、世界に並ぶものなき栄華を見せたというべきであろうか。
 しかるに、教会から福音の純粋な霊性は滔々と流れ失せ、信仰は制度と形式にからめられ、命と光は消えてしまった。この状態に対して「否!」と言い放ったのがマルティン・ルターである。かくて宗教革命が起こる。福音のリバイバルである。
 リバイバルとは「再生」である。ルターは、まず何を再生させたか、イエス様の十字架を信じる者が義とされる「義認」の信仰の回復、再生であった。
 宗教改革とは信仰の回復である。ルターの「義認」の信仰の次には、ちょっと一段階をおいて、そこに現れたのがジョン・ウェスレーの「聖化」の信仰である。
 その後、1900年台初頭にアメリカのカリフォルニアのアズサに「異言」の回復が起こる。これをペンテコステの回復と呼んでも間違いではないが、できれば1980年ころから澎湃としておこるカリスマ運動を本格的ペンテコステの回復と、私は呼びたいのだが、どうだろう。私の一私説にすぎないですが。
 韓国のソウルのチョウ・ヨンギ先生の一教会で70万人の会員を生み出した、前代未聞である。トロントやアルゼンチン・リバイバル、ボンケ先生のアフリカ宣教、奥山先生が体験したインドネシア宣教、どれもこれも驚異的である。
 これは世界の交通通信網などの発達による文化的グローバル化の激しい進展も加わって、宣教上の楽観主義も浮上して来るのだが、逆に更に深刻な近未来の世界観も出て来ます。それは、
 押し迫る世界の終末的様相である。先日もこの「日岡だより」に載せたが、世界からカエルが絶滅しようとしている? あるいはミツバチが消えつつある? 日本列島周辺の大洋の温度が上昇している。もちろん、地球温暖化の現象でしょうが。
 ひるがえって、自らの国内を見直せば、子は親を殺して、その首をかばんに入れて持って来る始末である。親も子を殺し、妻を殺し、他に方法がないと言って、あっけらかんである。
 日本政府は折角の「平和憲法」を改正したくて仕方ないらしい。これは改正ではなくて改悪である。
 私は断固言いたいのだ。世界は政治的にもグローバル化しつつある。国際間の交渉は戦争によらず、積極的対話により可能な時代に進化しつつあると私は信じる。
 私は絶対非武装非戦平和主義者であるが、これは決して空想的児戯的論議ではない。今や、現実的、実際的、実現可能な提案になっていると私は信じている。
 世界の平和、そして主の来臨は近い! それこそ最終のリバイバルなのだと私は確信する。ハレルヤ! 《く》

〔あとがき〕
言いたいことを「そのまんま」書きました。私は牧師としても、元々しろうと。まして世界国家を論じる思想家としてはズブのしろうと、しかし素人だからこそ、言えたことでもありましょうか。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-05-22 11:53 | 日岡だより
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