No.280 ミツバチいずこ 2007.5.13

ミツバチいずこ

 「ミツバチいずこ」、これは先週の新聞に出た見出しであるが、アメリカでミツバチが集団失踪、果実の受粉ができず、果実生産者の間に恐慌を来たしているという。
 もう一つ、これは先週のテレビであったが、地球上の五大陸の、どこも同じ怪現象らしいが、カエルが絶滅しそうだという。
 これはたかが、蜂や蛙の問題では済むまい。油断できない。すぐにも人間世界に飛び火してくる問題ではなかろうか。
 それぞれに、何らかの感染症と見られているらしいが、それにしても余りに広域すぎると、私は疑問をいだいている。私は隠れた巨大な広範の原因があるのではないか、疑っている。
           *
 この時、ちょうど妻が世話になっている老人介護施設で、大分岡病院の広報誌「一灯」に載せられた岡宗由理事長さんの巻頭言を見た。
 そこには治療に利用できる「波動共鳴現象」について語っておられる。波動共鳴現象とは、ちょっと聞き慣れない言葉だろうが、江本勝さんの波動説を知っている人には、すぐにも理解できる言葉である。
 原子レベル以下の粒子に起こる微小な波動、特殊な波動が水に影響を与えるという驚くべき現象。悪しき思いは水に悪しき影響を与えるということ。
 世界の水は、今、人間の悪しき思いの蔓延に毒されて、その水の悪い影響がカエルや蜜蜂にもたらされているのではないか……。
 これは私の素人(しろうと)らしい憶測であるが、決して荒唐無稽とは言えまい。「人類よ、悔い改めよ」という差し迫った問題ではなかろうか。《く》


キリストは道である

    一、人生という旅の「道」で

 「道」という、往年のイタリヤの名画があります。「道」という言葉には、何か、私たちに人生を考えさせるものがあります。
 イエス様の有名な例話に「良きサマリヤ人」というのがある。一人のユダヤ人が旅の途中、強盗にあった。半死半生の目にあって道のかたわらに捨てられた。そこを祭司も宮仕えの者たちも彼を見て見ぬふりをして通り過ぎた。
 しかるに、一人のサマリヤ人が通りかかり、(彼らは平素ユダヤ人たちから蔑視され交際も避けられていた種族であったが)、傷を受けたユダヤ人を気の毒に思い、傷の手当をして近くの旅篭屋まで連れて行って介抱した、という話である。
 そこで、欧米ではこうした親切なふるまいをする人をグッドサマリタン(良きサマリヤ人)と言う。
 先日、こんな新聞記事を見た。調(しらべ)洋介君という22歳の青年だが、豪州でオートバイで夜の道をとばしていて牡牛にぶっつかって横転、即死した。豪州内陸部での夜のドライブは、路上をわたる動物などで危険この上もない、人々はそういう無謀なドライブは避けるのが常識だという。そして洋介君も、その事を知らなかったはずはないという。どうしてそんな無謀な運転をしたのか。意外なことが分かった。
 洋介君はホテルのロビーで、一人の旅行者が「途中でアボリジニの家族がガソリンを切らして立ち往生していた」と話しているのを聞いた。しかし誰ひとり、そのアボリジニを助けに行こうという人がいない。そこで、洋介君はガソリン缶を持ってオートバイで飛び出していったというのである。ちなみにアボリジニとは豪州大陸の先住民族の人たちである。前述のサマリヤ人と同じように差別され軽視されたのだと推測しても、あながち間違いではあるまい。現地の新聞には、この洋介君をサマリタンと呼んで、我々は彼の名前をけっして忘れないだろうとあったという。洋介君は人生という旅の夜の「道」を尊く駆け抜いたのです。

    二、日本人の好きな「道」

 日本人はもともと「道」という言葉が好きである。茶道、華道、剣道、柔道、弓道。私の敬愛するA女史はハガキ道を唱導する。キリスト教でも、キリスト教と言わないでキリスト道という人がある。聖書にもキリスト教のことを「この道」と書いているところがあるくらいだから、この方が正しいと私も思う。日本人が「道」と言うとき、それが何ものであれ、それを徹底して継続修錬することによって宇宙に内在する普遍の真理を把握しようとする哲学を感じているのである。
 さて、聖書は他のところでこう言う、「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」(箴言16:9)。PL教団という宗教団体があるが、昔は「人の道」と言った。たしかに、人の道を教え、人の道を守ることは大切である。なるほどキリスト教でも人の道を教える。「親を敬いなさい」、「盗みをしてはいけない」、「嘘を言ってはいけない」、「勤勉でありなさい」等々。それは人類の諸集団の中での、凡そ共通の倫理規定であり、各人の良心もそれを承認する。
 しかし、聖書が教える福音の骨格はそれとは異なる。聖書の中心をなす神の啓示は、人間の理性や良心では「考え計る」ことが出来ない意図と力を持っている。人間の死と無力に挑戦する神の御心である。

    三、「道」 以 上 の 方

 イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネの福音書一四・六上)と。しかし、言葉を逆に配置して、「道はキリストである、真理もキリストである、命もキリストである」とは言えないのだ。ここが問題である。
 イエスはこうも言われた、「だれでもわたしによらないでは、父(神)のみもとに行くことはできない」(ヨハネの福音書14:6下)と。この「わたしによらないでは」という言葉に注意しよう。つまり、肝心な原理は、イエスご自身だと言うことです。このイエス様のご人格を抜きにして、単に「道だ、真理だ、命だ」と言っても、それはキリストの福音の能力や性質を説明したということに留まります。(たとえば電気とかエネルギーとかいうものをズバリを説明することはむつかしい。しかし、その能力や性質を説明することは簡単にできます。それに似ています)。
 世にある高品位の宗教や道徳、哲学、それはそれですばらしいものです。しかし、そこには人格として神の明確な照明がないのです。そして、諸宗教は熱心に人格的神(唯一の創造主)を求めていると私は思うのです。たとえば仏教ですと、真言宗が大日如来を、浄土宗系が阿弥陀如来という名を択一的に選び、その本体を霧中に摸索しているように見えます。
 この人類を生み出したものが、自然や法則の程度のものであるはずはない。噴水が水源よりも高くあがるはずはない。実に人間を越えて、更に人間以上に人間らしい、唯一者たる創造主が居られなければ、私たち人間がここに存在するはずは無い。
 キリストはこの創造主が万物創造の命令をされた、そのコトバの具現者です。言い替えれば、神の内部にあるコトバが神の指として、人の形をとって現れた方、地上の死と罪と悪を癒されるために下って来られたお方なのです。しかり、キリストは道以上の方、真理以上の方、神の命そのものなのです。(1994年4月24日の週報より)《く》

〔あとがき〕
このたびは申し訳ないですが、本文のほうは旧稿から選んで再掲載しました。巻頭の第一頁は、ある方々には興味深い記事かと思いますが、非常に現代的な訴えを持っています。大分岡病院の理事長、岡先生が取り上げておられることに驚きを感じますね。医学者としての常識的範疇から考えると、ケタはずれなご興味を持ってくださったわけで、嬉しくなりました。でも、時代はこのようなお方を要求しているのだと思います。▼私には知る人ぞ知る、雲を消す特技(?)があります。「念ずれば花開く」という名句を語る仏教詩人の方がいらっしゃいますが、私は「念ずれば雲消える」です。実際に私が空を見上げ、雲の一点を見て心に「この雲を消えよ」と念ずると、その雲が2、3分のうちに消えます。▼たぶん、私の心より発する「波動共鳴現象」だろうと思っています。もっとも、この言葉は岡先生から学んだのですけれど……。雲は水蒸気でありますから、水が共鳴しやすい原理からくるのだと思います。もっとも地上から空の雲までの距離を考えますと、私も不思議でなりません。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-05-15 13:35 | 日岡だより
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