No.277 スピリチュアルな健康について 2007.4.22

スピリチュアルな健康について

 先々週の本紙の最後の(あとがき)で、大分ゆふみ病院々長の山岡憲夫先生の講演にちょっとふれました。非常に綿密な講演でしたので、私も大いに教えられるところがありました。
 特に「スピリチュアルな健康」というテーマがかなり繰り返し語られましたので、牧師としての私は避けがたい関心を抱かされたのでした。
 最近、「スピリチュアル」というタイトルが、時おり新聞に出版広告がでます。世間でも関心が持たれているようです。
 また、多少とも危険を感じます。カルト的宗教の影響も推察できますし、興味本位で近づく人たちの安全を考えて警告を発したくなるのでもあります。
 「スピリチュアルな健康」とは、どんなことでしょうか。これは本当の健康とは何かということを考えるのに、非常によい取りかかり拠点であります。
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 さて私のことを書きます。私は今、非常に健康です。私は毎朝、一時間の散歩をしていますが、「先生、それ、先生の健康法ですか」と聞かれることもあります。私はそういう質問に必ず答えます。
「いいえ、違います。健康法ではありません。私は健康だからこそ、喜んで一時間、毎朝歩けるのですよ。これは実は、歩行祈祷でしてね、祈りながら歩いているのですよ。」
「へえ、先生。歩きながらでも、お祈り出来るんですか。」
「そうですね。歩きながら祈るのは、その付近のご家庭、一軒一軒、ご祝福を祈り、町や部落の安全、平和、神様のご祝福を祈って廻る趣旨でもありますが。また私自身のための祈りの訓練でもあります。」
「わあ、歩きながら祈るなんて、祈りにくいでしょうに、それが祈りの訓練になるのですか。」
「まさに、そうです。祈りの訓練なのです。人間はしょっちゅう、何かしておらねばなりません。祈るためにただ座っているというだけでは、地上で生きて働いている一般の社会の人々のためには、よい見本になりません。私は体を動かし、働いている人間として、ほら、働くという漢字は動くという字に人偏でしょ。そのように動いて働いている人々が日中働いている姿のままで、祈ることが出来るし、それが非常に恵みなのだということを立証したいのですよ。私に、それが完全に出来ているとは夢にも思いませんが、その願いをもって歩行祈祷の自己訓練しているわけなのです。」
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 人間が肉体行動をしながら、何かを考え、冥想し、祈るなどということでは、実は歩く姿勢が一番好都合なのです。ただ座って沈思黙考するというよりは、歩きながらのほうが精神的に能率的であることは、多くの哲学者が身をもって体得しています。京都の「哲学の小道」など良い例です。
 こうして、次第に「肉体行動をしつつ祈る」ことを覚える。この営みが、日常生活において、どんな時にも祈れる人になる、その準備の訓練として歩行祈祷が最適だと、私は思っているのです。
 そして、初心者においては、座臥祈祷よりも歩行祈祷のほうが、祈祷の深い境地に入りやすい。そんなことから歩行祈祷を実行しているのですが、その深い祈りとは、意識が魂より更に深い深層意識に入って行き、私の用語に従えば、更に深い神層意識に降りて行くということです。そこが神様とのコンタクトを取れるチャンネルでもあります。
 そのあたりから湧き上がってくる「いのちの泉」、それこそキリストの血潮であります。それこそ人間の元気の元であります。健康の元であります。これをスピリチュアルな健康と言いましょうか。
 最近、スピリチュアルな健康という言葉が医学界でも言われ始めていますのは冒頭の山岡先生の例で分かりますが、WHO(世界保健機構)でも取り上げているそうであります。《く》


油断することなくあなたの心を守れ

  「油断することなく、あなたの心を守れ、
   命の泉は、これから流れ出るからである。」(旧約聖書箴言第4章23節)

 以上の項に書きました「スピリチュアルな健康」という言葉ですが、医師の方々によれば、スピリチュアルという言葉は「精神的な、心の、宗教的な、信仰で与えられる、来世を目ざした」というように説明されるようであります。
 それで悪いとは言いませんが、牧師としては、やや物足りません。私どもに言わせてほしいところを叙上に書いたのでありますが、それに更につけ加えて以下のように書き足したいと思います。
 肝心なことは「心」という言葉の理解にあります。心は聖書的に言えば意識の表面的な場所にあります。先の文章の最後のほうで、「意識が魂より更に深い深層意識に入って行き、更に深い神層意識に降りて行き」などと書いてあるところです。
 これは私なりのしろうと用語であります。聖書では霊と魂を区別していますが、私はそれ以上に魂と心を区別します。
 心が言わゆる表面意識であり、魂が心理学でいう潜在意識であるとします。私は、潜在意識を更に掘り下げて深層意識、深層意識を更にもっと掘り下げて神層意識と言っているのであります。
 これは今の学会で認められている名称ではありませんから、世間的な権威はありません。私だけの私の説です。ご了承ください。
 前に述べた「いのちの泉」は、私の説に従えば、神層意識から湧きあがってきます。そして深層意識と潜在意識、この2つをまとめて、これが聖書で言う「魂」であると私は説明していますが、この深層意識、潜在意識を上昇して行くと、心に達します。
 この心から、いのちの泉が溢れ出るのです。それがこの項の最初に引用した箴言4章23節の聖句です。
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 命の泉、これこそスピリチュアルな健康の泉であります。このスピリチュアルな泉の溢れ出る出口が心でありまして、しかもそれは言葉を道具として溢れ出て行くのです。
 主イエス様のお言葉に、「心からあふれることを、口が語るものである」(マタイ12:34、ほか)とある、それです。
 だから、心を清めないと、その汚れた心が命の泉に流れ込んでくるのです。谷川のきれいな水に、泥の水が混じり込むようなものです。
 一旦、泥水の入った流れにも、もし新しい大きな河の水が流れ込んでくるならば、水は一変します。清い川に変わります。
 しかし、キリストの御血潮はもっと根底的に人の悲しむべき汚れた心を変えます。化学薬品で液体の色も性質をも変えてしまう実験がありますように。
 これを劇的に体験させて下さるのが、ペンコステの聖霊体験です。イエス様の十字架を信じて義とされる義認の信仰に更に増し加えて、ペンテコステの信仰をすべてのクリスチャンに期待したいのです。

〔あとがき〕
最近、スピリチュアリティという言葉は一つの流行語のようですね。それがキリスト教界にも逆輸入されている感じです。超ペンテコステ派的な雑誌「ちから」誌の5月号に、今回は「特集」と表紙に銘を打って、「ペンテコステ、キリスト教のスピリチュアリティ」とありましたよ。▼私はテレビを殆ど見ない。ところが、この文章を書いている今、テレビでちょうど美輪ナントカ女史と江原ナントカ先生とのそれこそスピリチュアリティ対談。「ああ、これかい」、と私はヒザをたたいたが、テレビ・オンチで世間知らずの私は今更のように気がついた次第。▼先の「ちから」誌では、「世界にはばたくペンテコステ教会」という奥山実先生の主軸論文も載っていました。世界的に驚異的に成長している教会はペンテコステ派の教会だけだという嬉しい報告でありました。皆さんにぜひ読んで頂きたいです。▼スピリチュアリティの本家はキリスト教会である。その開花はペンテコステ事件であった。このペンテコステこそ、世界のちまたのスピリチュアリティを席巻する。▼私どもの教会も、あらためてペンテコステの霊的経験を振り返りましょう。この経験が軟化していないか。ペラペラ口慣れてしまって異言らしきもので、自分をごまかしていないか。▼燃えあがる力ある異言を語ろう。更に異言を解く賜物をも主に求めよう。私たちは火を求めよう。ワッハッハハと笑ってばかりいないで、火を求めよう。▼かくて、我ら、人格転換、能力百倍、品性純化、家庭天国、教会軍隊、日本は楽園、天皇様は世界一のクリスチャンに! 祈ろう! 《く》
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by hioka-wahaha | 2007-04-24 11:57 | 日岡だより
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