No.275 キリスト者の愛国心 2007.4.8

キリスト者の愛国心

 キリスト教は外国の宗教である。だからキリスト信徒は外国かぶれである。彼らには愛国心なんか、あるはずはない、などと思っている人もあるかもしれない。
 もっとも敗戦後の日本では、自らの祖国を見下げて、これをバカにするのがカッコよいと思っている人たちもいるかもしれないが、本当のクリスチャンはそうではない。クリスチャンこそ、本当の自分の国を愛するのである。
 日本のクリスチャンで有名な愛国者をあげると、世間で知っているのは、まず新渡戸稲造だろう。彼が「武士道」という本を書いて、アメリカのルーズベルト大統領を感激させたのは有名である。「私はアメリカと日本を結ぶ太平洋の橋になりたい」と言ったのも彼であった。
 内村鑑三こそ、またその一人である。彼は二つのJと言った。第一は Jesus 、その第二は Japan であった。二つともJの字をもって始まる、この二つの名のために命を献げたいと内村先生は念願した。
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 こうしたことは、明治のキリスト者(敢えてクリスチャンと言わない)たちの特長であった。同志社を作った新島譲にしろ、日本基督教会の初期の大立て者、植村正久にしろ、彼らは皆、明治維新以後の大変革期の日本を救うものはキリスト教以外にないと信じたのである。
 内村先生は言う。「私どもは日本を棄てて、ひとり自分だけが救われようとは思いません。パウロも言うとおり、『わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない』(ローマ9:3)のです」と。
 私も声を大にして言いたい。
「わが母なる国、日本を愛す」と。《く》


絶対非戦主義の提唱

 私が「絶対非戦主義」を提唱するのは、私が本当に日本の国を愛するからである。私は衷心から、わが母国日本を愛する。だから、私のキリスト教的倫理水準に従って、日本の国を戦争という罪に堕落させたくないのである。
 旧約聖書時代のヘブル人たちは異邦人国家にたいしては無類の武者ぶりを発揮して戦争した。しかし、同胞内においては、ずいぶんとお人よしであった。つまり金を貸しても利子を取らなかった。蒲団を質物に取っても、夜には寒いだろうと返してやった。
 麦を刈っても、落ち穂はないかと振り返ってみなかった。貧しい人たちのために残しておいたのです。葡萄の実でも、いちじくの実でも、そうした。
 イエス様は仰せられた。「あなたがたは、人にしてほしいことを、人にしてあげなさい」。孔子の「人にしてほしくないことを人に向かってしてはいけない」という言葉以上の言葉である。
 それにしても孔子の言葉は正しい。外国から冷たくされたくないのなら、こちらから冷たくはしないのです。そして外国から仲よくされたいなら、イエス様のおっしゃるとおり、まず自分の国のほうから友好の態度を以って、交流や貿易など相手国に有利な条件を用意して、こちらから出かけてゆくのです。
 「絶対非戦主義って、敵国が攻め込んで来たら、何もせず、無抵抗に攻撃され、破壊され、殺されるんですか、そんなの絶対イヤです」という人たちは多いでしょう。私だってイヤです。ですから、
 私も言うのです。攻撃されるなんて私も絶対イヤですよ。だから、攻撃されそうな気配が起こる前に、友好的態度で対話を求めるのです。対話ということでは私は創価学会の池田さんに学ぶこと、大です。
 池田さんは言います。対話の時、「小異を捨てて大同につく」というのではなく、「小異を残して大同につくのですと」。これには私も感心しました。
 とは言え、「大異が残ったらどうしますか」という疑問が起こります。その時には、止むを得ません。大譲歩しましょう。これが私の思い切った意見です。
 「領土をよこせ」と言われれば領土をあげます。軍隊を進駐させると言えば、「さあどうぞ」と軍隊を国内に迎え入れます。まるで敗戦、悲惨の極。ここで、皆さんはギョッとして言うでしょう。
 「そんなこと、あんまりです。極論です。非常識です。それでよいのですか。国内に反乱が起こりませんか。クーデターが起こらないのですか」と。
 「ハイ、そうです。クーデターを起こすような武器も戦闘意欲も国民にないからです」。
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 「えっ。そんな腰抜けな国民になっているのですか。いや、そうでしょうね。非戦主義で一番心配なのは、国中がみんなそんな腰抜けになってしまうということ、それが必定だからです」。こういう反応が多く出ると思います。
 しかし、違うのです。トルストイの「イワンの馬鹿」に出てくるような、大のお人よしの国民たちとも違います。もっと剛毅な平和主義の人民たちです。
 もしも通常でしたら、政府が最初、「領土はどうぞ、進駐も良いですよ。日本銀行もお宅で管理してください。JRもテレビも、労働組合の管理もお宅に任せます」。そんなことを言い出した時から、とっくに政府攻撃、ストライキ、棍棒を持ってでもクーデターが起こるでしょう。
 ところが違うのです。その時の国民諸君は徹底した友好姿勢と善意で、相手国の出先や幹部級の人々に接します。そういう一般国民の必然的平和的態度は相手国には情報収集で前々からよく分かっています。
 彼らもこれに対しては、どうもやりにくいのです。最初の会議の時から、すでに相手国はこの国民の友好的雰囲気というか、民衆の平和意識は却って手強いぞという一種の不安感を抱いていますから。
 実は、国と国の戦いというものは、最後には武器や戦力や金や産業力では決着つかない。その文化的、倫理的民度が力の差になるのです。
 ソ連の兵隊がドイツに進駐した時、ドイツの文化、科学の力に目を見はりました。また彼らが多分あなどっていたであろう満州の日本軍や日本人市民に接した時、下級軍人や一般市民さえ持っている腕時計にびっくりし、そして強奪したりしました。しかし、強奪したもののソ連の兵隊のほうが、負けている日本人に心では位負けしていたはずです。
 敗戦後の日本に来たソ連の人たちが、関門トンネルを見て、「これはアメリカ人が作ったんだろう」と言いました。「いいえ、日本人が作ったのです」、こう答えた時、ソ連の人たちは声を失いました。
 過去の歴史上、中国はいつも負けて勝ちました。侵入してくる外敵に対しては常に負けていましたが、勝ち誇って入ってきた敵民族は、いつしか中国の土地と民衆になじんでしまい、最後にはみんな中国人に同化してしまうのです。
 どんな時にも剛毅な平和心を持って迎えるならば、私たちは世界のいかなる勢力にもおびえることはないのです。キリストの平和をもって万事に勝つことが出来ます。
 日本の政府がもしも、前記のような徹底的な平和対応の協議ができるのは、それに同意し、応援するバックの民意があるからです。決して負け犬根性で気の弱い外交をしているのではないのです。
 もし、その同意により、たとえば相手国の軍隊や行政マンが、押しつけがましく、横暴に入って来たとしても、それに応対するすべての日本人民の応対姿勢、その心が全くキリストに捉えられて完全なキリスト者になっているとすれば、かつて世界が経験しなかった不思議な平和社会が現出される筈です。
 さあ、そこで言います。この日本の全国民に、全きキリスト者の完全を期待して、主の福音を伝えましょう。聖化の達成を、まず私ども自身のために、主に求めましょう。
 以上は外交論でも政策論でもありません。実は伝道実践と聖化論の提唱なのでした。《く》

〔あとがき〕
上記は正に空想的非戦論に感じられるでしょうが、しかし、かつての「真の現実的非戦論」と題したエッセーの再論です。これを叩き台にして、皆さんのご反論や賛成論、修正論を頂きたいものです。▼去る4月5日、滝元明先生がチャペル・ノアに来られ、熱烈、感動、かつ分かりやすいご説教をなさって下さいました。皆さんにお知らせする時間的余裕がなくて残念でした。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-04-10 14:39 | 日岡だより
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