No.272 「回心」ということ(三) 2007.3.18

「回心」ということ(三)

 前号で「聖霊体験というものは一筋縄には行かない」ものだと書きました。少し茶化して書いたおもむきもあって反省しています。回心という体験だけに限っても一筋縄には行きません。
 前号では義認論的回心と聖化論的回心という対比で説明しました。今回は瞬間的回心と漸進的回心という比較で考えてみましょう。
 大抵の場合、回心と言うと、瞬間的回心のことにきまっている感じもします。前号に紹介した内村先生や石原先生の場合もそうです。くどいようですが、もう一つ、そんな偉い人ではなく平凡な人の場合、私の父のことを例に挙げてみましょう。
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 私の父は30歳前後のことだったと思いますが、大正初年の頃、胸部疾患と商売の倒産と、そんなことで妻は実家から取り返され、孤独と怒りと絶望にさいなまれて、もう自殺寸前の心境でした。
 怒りというのは、本家の長兄が長い間、家を放って朝鮮あたりで海賊まがいの生活をしていた間、その弟である父はずいぶん犠牲を払って本家の留守を守ってやった。単なる留守番ではない、大分市一、二を争う問屋店の経営だったのである。老いた父は居たにしても、経営の一切を引受けざるを得なかったのだ。
 そこに長兄が帰って来て、自分の居ない間の店の経営や財産処理について疑いの目を持ったわけだ。本家の財産を弟である父に横領されたかの如く罵り、言いふらし、ついに父は世間から泥棒猫のように見下げられる有様になったのである。
 父は自分の善意がことごとく欲心のごとく誤解され、同じ町内に住むところもないような情けなさである。父の怒りは心頭に達した。神も仏も信じられない。「天道是か非か、神も仏もあるものか」ということで、怒りは神様に向かった。とうとう教会に行って牧師に会った。胸にたまった、その思いをぶちまけたのである。
「牧師さん、神さんが本当にいるのなら、あっしがこんな目に会うはずはない。もし本当に神さんが居るんなら、この目に見せてほしいわ」。
 その時の牧師さんが偉い。「釘宮さんとおっしゃるか。キリスト教の神様は、あなたが本気で祈ったら分かりますよ。お宮やお寺のようにご祈祷料をはらって神主さんやお坊さんに祈って貰うのではありません。あなたが自分で祈れるのです」。
 牧師はこう言って簡単に祈りの仕方を教えた。父は急いで帰った。商品の無くなってしまっている空っぽの納屋にこもって地方の方言丸出しで祈り始めた。
「キリストの神さん、私はあなたを知りません。牧師さんが祈ることを教えてくれましたからお祈りしています。あんたさんが本当に居るんなら、今晩、どうぞ、私の前に出て来て下さい。そうでなければあしたの朝、一番列車に飛び込んで死にます」。
 父は一所懸命祈った。突然、納屋が火事になったかと思ったと言う。驚いて目をあけて見ると、壁も天井も床も金箔をはったように光り輝いているではないか。
 それだけでない、喩えようのない尊いお方がそこに居られるような感じがして、父は震えあがった。一種の畏怖感に襲われた。思わず叫んだ。
 「神様あ、ありがとうございます」。涙がボタボタ落ちた。
 こうして私の父は「キリストの火を見た」のである。一瞬にしてクリスチャンになったのである。神の臨在に触れたのである。この体験は彼の心魂に徹し、彼の生き様をすっかり変えた。
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 この父の起死回生の姿を見て、あの彼を罵り迫害してきた長兄が驚いた。それまで、道で会うことがあっても恨みに燃えた目で見据えて、プイと目をそむけていた、そんな彼が「やあ、兄やん」と近よって来る。「これはどうしたことか」。
 聞けば、この頃はキリスト教になって教会に行っているそうである。そこで、彼(つまり私の伯父)は大学時代、下宿の同室の友人から内村鑑三の「聖書之研究」を見せて貰って、キリスト教に興味を持ったことを思い出した。彼は早速、「聖書之研究」を注文した。この時、彼は「聖書之研究」の発行所が分からず、東京市 聖書之研究社御中とかいて手紙を書いたら、早速それで届いたらしく、無事「聖書之研究」が送られて来たそうである。
 こうして、後の無教会の九州の豪の者、事業と政治と伝道に八面六臂の働きをする釘宮徳太郎が生まれるのである。彼はどこか、負けず嫌いであったから、並のキリスト教会に行かないで、無教会に行ってしまったのか、それも分かるような気がする。しかし、その後、私の父とは本当に意気相通ずる仲のよい兄弟になった。子どもの私にもそう見えた。
 この徳太郎伯父がある所で書いている、「私は間違いなくイエス様を信じ、殺されても信仰を捨てることなど微塵も考えたことなどはないが、しかし信仰にあたって幻を見たとか、天使の声を聞いたとか、そういう神秘な経験は少しもない。ただ、無雑にイエス様と神様を信じているだけである。そして生きている間、この尊い信仰をあらゆる人々にむかって知らせたいのである」と。
 彼は小さい集会を日曜ごとに開いた。また「復活」というB5・4頁の市内伝道雑誌を作って、方々に送った。たとえば、彼の商売上に必要な請願書を出さねばならないような県庁の試験場長にも送った。先日、機嫌を害するような意見を申し立てたばかりの、そのお役所に対しても遠慮はなかった。
 そういう彼であったが、信仰は漸進的回心であった。いきなりの瞬間的回心ではなかったのである。


生き甲斐と死に甲斐

 前述の私の父のことですが、私の知っている父はいつも病床勝ちで、よく断食していた。その頃は、喘息には断食に勝る療法は無かったらしい。
 その時の父の日記帖には「断食第3日」など一行書いてあるだけの日があって、それが大抵2週間は続いていた。その途中にポツンと「私は神の愛子である」と書いた日があったりする。その日記に私は泣いた。
 父は45歳で天に召された。その2週間ほど前、父は「主にある肉の兄弟会」を開いてくれと、長兄に頼んだ。すでに長兄をはじめ、他の伯父や伯母たちも信仰にはいっていたのである。
 父はその同信の兄や姉たちと最後の集いをしたかったのであろう。自分の死後のこと、葬儀のことなども相談した。その時の模様を、当の長兄の伯父がこう書いている。「弟はまるでふすまを開けて次の部屋に行くように、死のことを語るので自分たちは泣かされた」と。
  母から聞いたところによれば、父はしばしば喘息の発作で絶息状態で意識不明に陥った。その時、「天国が見える」と言って喜んだそうである。だから発作がひどくなって苦しくなると、どこか絶息するのを待ちわびている様子であったという。父にとっては死は喜びの関門であったのである。
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 いつぞや、産経新聞で「生きがいって何?」という相当大きな特集記事を組んであったことがある。
 その中で、「生きがい」という言葉を「生活満足度」という言葉でくくった質問の表があった。「去年と同じように元気であると思うか」とか、「人にくらべて恵まれた人生であると思うか」などとある。これはどうも、本来の「生きがい」とは違うな、と私は思ったことだ。
 神谷美恵子さんが「生き甲斐について」という本を出したのは1966年(昭和41年)である。これは一部の人々には衝撃的な本だったと思う。「生き甲斐」という言葉は日本にしかない、と神谷女史は言うのだった。なるほど、これは日本人らしい人生表現である。生活満足度と言うより、「生存満足度」と言うべきか。
 父は青年時代、明治の若者らしく「末は大将か大臣か」と希望を抱いた。ところが志に反しての長い病床生活である。
 その時、彼は書き残している。「病気こそ我が本業なり。この六尺の布団の上、ここは弾丸が雨あられと降る戦場や、代議士諸君を相手に論戦を戦わす国会議場と同じことだ」と。
 彼にとって、主にあって病気と戦う日々こそ生き甲斐であった。死期を察するや、前述のように同信の兄や姉を招いて、最後の別れをした。2週間ほどして、父は笑みを浮かべて天に帰って行った。父は「生き甲斐」のみか、「死に甲斐」をも味わって行ったのであると、私は信じている。《く》

〔あとがき〕
今回は時間が無かったのか、文章づくりが下手になったのか、なかなか書けなくて、ムラや文意不明のところ、多々あると思うのですが、悪文、ひとえにお許しを乞います。▼なお、小生の家庭では、妻はまだまだ臥床中ですが、先だっての中野渡先生のご祝福以来、しばしばよく笑い、また言葉も聞きとれやすくなりました。介護施設に一泊することがありますが、ニコニコ顔で職員の皆さんに愛されています。先生がた、教友の皆様のご加祷を感謝します。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-03-20 17:49 | 日岡だより
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