No.269 感謝による奇蹟 2007.2.25

感謝による奇蹟
        ―中野渡信義先生のご説教よりー

 先週の主日礼拝は、秋田キリスト教会の中野渡先生を迎えて、感謝と喜びの一日を過ごしました。
 先生の自由闊達、明朗率直な人柄は神様が生まれながらの先生に与えられた性格の賜物でしょうが、また先生が信仰生活の途上で聖霊様に取り扱われ、訓練され練り上げられた恵みの結果なのでしょう。
 某先生のもとで、3年ほど掃除ばかりさせられ、「献身したい、献身したい」と幾ら言っても取り上げて貰えず、外の人には「神学校へ行かないか、神学校へ行かないか」と献身をすすめている。
 そういう状況下でたまらなくなって、自分で勝手に飛び出して山形の田舎に行って、誰一人クリスチャンのいない所で、小さな家に十字架を立てて伝道を始めた。どこか牧師さんのいなくなった教会に行けば、少なくたって信者さんも何人かはいる。小さな会堂もあるかもしれない。そういう所に行くのではないのです。
           *
 誰ひとりいない所に行って伝道を始めるのです。何も無いところから始める。祈るしかない。自分に何の力も無いのですから、力の無い私に力をくださるのは神様です。
 そこで、何も無い所で、神様に感謝するんです。文句を言っても扉は開きませんよ。神様に感謝する時、扉は開きます。そうすると、人が不思議に集まってくるのです。
 後に秋田に来ての伝道も、一切何もない所から始めました。既存の諸教会からの迫害を受けたくらいです。然し、神様は真実です。そういう所から数年ならずして1億円与えられて800坪の土地の大きな会堂が与えられるのですから、感謝です。感謝するたびに奇蹟が与えられるのです。(文責・釘宮)


母の泣き笑い

 先週の礼拝が終わってから家に帰ろうとしていると、母が私に何かしきりに言う。
 よく聞いてみると「祝福」と言っている。
 「祝福の祈りをしてほしいの?」
 うなずく。
 「誰に?お父さんに?」
 首をふる。
 「中野渡先生?」
 母はそれに答えて「中野渡先生」と口を動かす。
 鸚鵡返しのようでも、かなり意志的な感じがしたので、車椅子を押して礼拝室前方の恵みの座に押していった。
 先生は他のかたにお祈りをしていた。
 待っている間に、母に「自分で先生に祈ってくださいと言おうね」と言うと、うなずく。
 母がより自分の意志で行動しているという証拠が見たかったのだ。
 番が来て、母の言葉が通じないといけないので、先生に大体の説明をする。そして母に「先生に言って」と言うと、私に「あんたが言ったのでそれでいいやんか」と言う。あらら。
 先生に按手の祈りをしてもらう。
 
 その後、家に帰ってベッドに移し、食事をしようとしていると・・・・母が泣き出した。
 思い通りにならない辛さや悔しさからなのか、母は時々泣くことがある。
 しかし、今日は全然違う泣き方だ。いつもなら横をむいて体を丸めるようにして泣くのだが、今日は上を向いて、嗚咽するように泣き、動く左手で涙をぬぐっているのだ。
 霊的な感動を受けたときみたいだ、と思った。
 先生の祈りだ、とピンと来た。
 「どうしたの?感動したの?」と聞くと、うんうんとうなずいて「感動した」と言う。
 それからかなり長い間、母は何度もおーんおーんと声に出しては泣き、合間にはわははと笑い、また思い出したように泣いては自分で「嬉し涙だ」と言い、その言葉につられるようにまた笑った。
 なんということだろう。食事の世話をしていた姉と私はあきれたように母を見ていた。
 どうしたのかといろいろ聞く私たちに受け答えする言葉もとても聞き取りやすく、母の頭の中に何かが起こったみたいな感じがした。
 私が報告すると、父や教会員の数人もやってきて、いっしょに喜んでくれた。
 母に「みんなにお祈りしてあげようよ」と言い、頭を差し出して「手をおいて『祝福あれ』と言ってよ」と言うと、ひとわたり全員にしてくれた。
 ベッドの手すりをほとんど常につかんでいる左手をほどくのは、ふだんはとても大変なのに、今日は自分から手を離して祈ってくれた。
 
 ついつい、「おなかがすいた?」とか「TV見る?」とか、そういう会話のみになってしまいがち(そういう事柄でも「会話」できる状態は嬉しいことだけど)で、母が生理的本能的な感覚のみで生きてるように考えがちだけど、決してそうではないことがわかった。
 頭の中で心の奥底で、知的な霊的な母の本質がちゃんと残っているのだ。燠火のようになっているのかもしれない。でも、霊的な磁場とか祈りとかがきっかけでちゃんと燃えるのだ。そう気づかせてもらえたことは本当に感謝だった。         (せつこ)


対話的説教とは

 先週の礼拝の後、中野渡先生のご祝福の祈りを頂いて、喜んで自宅に帰った後の妻の様子を娘のせつこが日記に書いてくれてあった。「これは良いなあ」と思い、前葉の見開きに入れさせて貰った。
 妻のことは、私も見ているつもりではあったが、さすがにそばにいたせつこは娘の目でよく見ている。妻の聖霊による喜びが手にとるように分かる。
 私の目ではこうは行かない。私は妻のことより、牧師の目で他の方々のほうを見ているので、妻に対しては不親切である。
 さて、先週の木曜の祈祷会で、私のメッセージの前に30分ほど、集まっている皆さんに中野渡先生の説教をお聞きした時の礼拝の感想を話してもらった。と言うのも、
 一種の対話的説教にしたかったのであるが、なんと昨日手束先生から頂いた先生の高砂教会の月報に「対話的説教」についての記事があるので驚いたことです。
 説教のさなかで、会衆のだれそれに声をかけて、その反応をたしかめるやり方を手島先生はよくなさっておられたが、そのことを思い出した。尤も、手島先生はもっと凄い、説教(と言っても先生は講義と称したが)の中で、しばしば顔を天に向けて「主様!」と神様に問いかけることがあった。
 会衆と神様と三者の会話で説教をすすめるこういうやり方もあるのだなと、今、粛然として感じ入っている次第である。《く》

〔あとがき〕
尚、前述の手束先生の高砂教会の月報では、某西洋の神学者の「聖霊論重視の神学」という中にある「聖霊の多声」による「対話」というはなはだ理解困難な主題にふれておられたが、私の悪い頭にも何か分かりそうな気もする。もっと勉強したいですね。▼勉強というよりも体験でしょうが、最近も教会に一度だけ出席されたことのある方で、私の「笑えば必ず幸福になる」の小冊子を持って帰られた方、その後、入院された由なので訪問して祈ってさしあげたら、脳障碍からくる失明が癒され、見えるようになりましたというご報告、こういう体験がもっと欲しいです。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-02-27 15:22 | 日岡だより
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