No.265 寄り添って下さる方 2007.1.28

寄り添って下さる方

 先日、大分市郊外のゆふみ病院に行く機会があった。そこは、大分県には(たぶん)ただ一つしかないホスピス病院である。ホスピス病院とは、一応回復を望めない末期症状の患者さんたちを迎え入れる病院を言います。
 普通、医師としては健康体に回復させてあげられると思うからこそ、熱情をもって医療活動をつづけられるのであって、ただ死を待つだけの患者のために、お世話をする医療というものは、医師にとって耐えがたいものなのだと聞いたことがあります。それだけに、ここで従事される医師のお仕事は実に尊いのです。
 さて、この病院で院長先生にお聞きした話ですが、この病院に設立以来すでに五年ボランティアとして奉仕に来てくださっている方々がいる。その一人の方に、ある人がインタビューしたそうです。「あなたがたは、こうしたご奉仕にたずさわって、さぞ誇りを持っておられるでしょうね」。
 その答えはこうだったと言います。「とんでもない。私たちには誇りなど少しもありません。ただ、私たちはここの患者さんがたに、そっと寄り添って、そばにいて差し上げているだけなんですよ」。
 私はこのお話を院長さんから聞いて、本当に感動しました。そして、これこそ聖霊様の御働きに似ているなあと思いました。イエス様は、聖霊様について、こう言われました。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせてくださるであろう」(ヨハネ14:16)と。
 この助け主という言葉を、他の聖書ではよく「慰め主」と訳してあります。たしかに聖霊様は私たちと共にいて、いつも寄り添い、助けてくださる「慰め主」なのです。アーメン、感謝! 《く》


聖霊の治癒力、主の血潮の免疫力

   一、A・シュバイツァーの説明

 ある人々は肉体を癒す力を「自然治癒力」と言う。医術を人間機械の修理技術のように思っている人にくらべ、その人たちを称賛したい。しかし、C・ハーシュバグとM・バリシュという2人のかたは「癌が消えた」という本の中で、その力を「自己治癒力」と書いた。
 「自然……」と「自己……」とでは、たった1字の違いだが、その発想には大きな違いがある。あ、これは凄い! と私は思ったものだ。
 人の体を癒すのは自然に癒してくれる生体系の自動システム、それだけではないのだ。患者自身の生命、その意志に関係がある。
 さて、ノーマン・カズンズ氏が、その「笑いと治癒力」(岩波同時代ライブラリー)の中で、同氏がアフリカのランバレネにノーベル平和賞のアルバート・シュバイツァー博士を訪問したときのことが書いてある。
 カズンズ氏がアフリカの呪術師(拝み屋さん)のことについて揶揄的にシュバイツァー博士に語った時、シュバイツァーは真面目な態度で答えた。「あなたは呪術師のことをどの程度知っているのか」と。
 そしてカズンズ氏を連れ、森の中の呪術師のところにいって、その医療の実際を見せてもらったそうだ。
 呪術師は患者のある一群には薬草をあたえ、ある一群には呪文を語り、残りの一群にはかたわらにいる白人の医師(つまりシュバイツァー)を指さして何か言った。これはシュバイツァーの外科的手術を受けるようにとの指示なのであった。呪術師は患者をよく診察、それぞれ専科的に手分けし、分業体制を確立していたわけだ。
 そして、シュバイツァー博士が言ったそうです。「呪術師が医療に成功するのも、我々が同様に成功するのも、同じ理由によるのだと私は信じている。どの患者も自分の中に自分自身の医者を持っている。私たちがその各人のうちに住んでいる医者たちに働いてもらいさえすれば、首尾よく彼らを癒すことが出来るのです」と。

   二、K兄の癒し

 10月19日の午後、K兄が訪ねてくれました。同兄の所属教会の礼拝で証しをして、その帰途らしい。ご夫婦でいらっしたのである。ニコニコしている。
 奥さんの着ているスーツが私の目にはいったので、「やあ、美しいね、いい服だね」なんて言ってしまった。私が女性の衣服に目がとまるなんて滅多にないことです。
お2人とも喜んでいるし、生き生きとした活力に満ちているので、私も嬉しくて、軽い言葉を出せたのでしょう。
「先生、もう大丈夫です。先生が先だって病院に来て祈ってくださってから、回復メキメキです。こんなに元気になりました」。
 そういって、呵々大笑する。愉快な笑い声、私のお株を奪ったみたいだ。そばにいて奥さんも大いに笑う。
 かつては互いにそっぽをむいているような夫婦であった。何かと、反目、追及、互いに避けている。そんな関係に見えた。今は違う。手に手をとって仲よく寄り添っている。
 K兄は病院の時のことを語った。会社の社長が来た。K兄は自分の癌の癒されたことを確信をもって語った。社長もクリスチャンだから、そういう会話がよく通じる。そばにいた看護婦さんが目を手で蔽うて出て行った。
 あとで聞くと、クリスチャンでもないその看護婦さんだったが、そのお二人の会話を聞いていて感動して涙が止まらず出ていったらしい。
 私は東京に行ったついでに、2度か3度か、このK兄をお茶の水の病院に訪ねたものだ。もちろん、私は祈った。私は病気の人に対しては、特別の場合を除き、必ず祈る。熱意をもって、大胆に祈る。完全に癒されることを信じて祈る。それにしても、これほどみごとに癒されている人を見ると、本当に嬉しい。
 何よりも、この兄弟は肉体が癒されているというだけでなく、霊性が癒されていた。魂が活発に働いている。そばにいる人たちを活性化する火花を散らすような体のしぐさや会話がある。
 この人のうちに、まことの癒し主なるイエス様が住んで居られるからだ。そこから命の光が発散している。周囲のものが元気になる。これこそ復活の英気である。これが本当の癒しである。
 自然治癒力ではない。自己治癒力でさえない。各自のなかに住む「各自のお医者さんだ」とシュバイツァーは言ったのだが、もっとはっきり言えば、それは、私たちの中に住まわれるイエス様ご自身である。
 主の「聖霊の治癒力」が私たちを癒すのである。あるいは「主の血潮の免疫力」と名づけるべきでしょうか。(1997・11・2旧稿)《く》

〔ゆふみ病院にて〕
 昨日、ゆふみ病院に原田光子さんを訪ねた。お瘠せになったし、目もつぶっておられる。弱られたなあ、と思う。
 私が祈っていると、「先生、手や足を叩いて下さい」という。病床にいると手足がだるくなることはよくあることなので、手足を叩いてあげた。
 しばらくしたら「足を上げて下さい」という。ちょうど看護師さんが来たので、足を上げたり、またマッサージするのを教えてもらう。しばらくすると、光子さんが何か言った。声が低くて私の耳には聞こえない。
 ところが同行していたT兄が「先生、姉妹は『悪魔よ、出て行け』と言ってましたよ」という。
 「あれ、手や足を叩いてくれと言ったのは悪魔を叩き出すことであったのか」と、私は恥ずかしく思ったことでした。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-01-30 15:36 | 日岡だより
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