No.262 年頭の励まし 2007.1.7

年頭の励まし

 2007年、この年はどうも素晴らしい主の大事業が始まる年になりそうです。このことを、主がお約束されていると信じています。
 私どもの教会は別府湾の南海岸に面していますが、今は新日鉄の工場があって海は全然見えません。昔は潮干狩りが出来る広い遠浅の海岸でした。
 ところがこの新日鉄の工場を造るために、遠浅の沖合の土砂をポンプで吸い上げて手前に送り返して埋立てたのです。そうすると、沖のほうが突然30メーターほど深くなるという海底の形になってきて、それが大きな利便をもたらすのです。つまり、
 埋め立てられた浅瀬の部分は旧大分市に匹敵するほどの大きな広さ。そして急に海底に深くのめり込む地形は、何万トンの船が来ても安心して横づけできる埠頭に持ってこい。今、新日鉄には海外からくる鉄鉱石の大貨物船が悠々と入港しています。こうして世界一の製鉄工場が大分に出来た訳です。
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 昔は潮干狩りのほか、何の使い道もなかった日岡海岸です。昔の人が生きていて、今の様子を見れば、目を廻すことでしょう。この別府湾の背後地に豊かに主の福音を……、と私は祈っています。
 先日、1月5日の朝、大分の橋本牧師先生と、別府の永野牧師先生が突然私を訪ねてくれました。お2人で示し合わせてのお出でだったらしい。私と私の教会のために熱い祈りを献げてくださったのです。私どもの教会で、私が気にしている後継者問題をお察しになって、ご援祷に来てくださったのです。
 私はびっくりしました、そしてこの主にあって励まして下さる先生方の真情に私は心で泣きました。未開拓の遠浅のような当教会の状況を憐れんで、主は先生方を私の前にお遣わしになったのに違いありません。主の尊い御励ましに感謝します。《く》


「主の喜びは私たちの力です」

 この標題は本当は「エホバの喜びは私たちの力です」としたかったのです。ネヘミヤ記8章10節の「主を喜ぶことはあなたがたの力です」というお言葉を下敷きにしたのです。このお言葉はヘブル語原文から直訳すれば、「エホバの喜びはあなたがたの力です」となります。
 エホバという神様のご名称はもともとは言語学的合成語でして、やや問題もあるので、口語訳聖書や新改訳聖書ではこれを「主」と訳しました。
 もっとも本音は「エホバの証人」というまぎらわしい宗教団体の名称を嫌って、これを避けたのであろうと推察できますが、そうだとすれば日本聖書協会あたりの姑息な気の弱さが残念にも思えます。
 古代のヘブル語は子音だけを表記して、母音をつけませんでした。昔のユダヤ人たちには、それで習慣的に読むことが出来たのです。
 日本人でしたら、昔の日本人が和歌などで「なこりつきさる親子の別れ」などとあります時、結構これを「名残り尽きざる親子の別れ」と、濁音にして読むことができました。これに似ています。
 その母音記号のない神名に、主というヘブル語はアドナイですが、このアドナイの母音をヘブル語の神名に機械的にあてはめた、ということではないかと判断して、聖書学者たちが推測した神名が「ヤハウェ」なのです。
 こういうややこしい経緯がありますのと、エホバの証人の皆さんの熱心な伝道に辟易して、エホバという神名を避けたいという気持ちも働いたのでしょうか、明治の文語訳聖書以来の懐かしいエホバという神様のお名前が聖書から消えてしまったという訳です。残念に思います。
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 ところで、ネヘミヤ記8章10節の「主を喜ぶことはあなたがたの力です」というお言葉ですが、これはクリスチャンの間では、かなり有名な言葉です。
 ところがヘブル語聖書を開いてみると、言葉の組立てが違うのです、正確に訳すと次のようになるはずです。私はヘブル語はしろうとですから、心配なのですが、こう読めます。
 「エホバの喜びはあなたがたの力です」
 英訳の聖書は私の見る限り、すべてこの私の読み方と同じです。ところが日本語訳の聖書はどういう訳か、すべて「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という訳と同工異曲です。
 明治訳の「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」という文語調が日本人クリスチャンに愛誦されただけに、改訳の先生がたもこれを捨てがたく思ったのかもしれません。
 しかし私は思うのです。「エホバの喜びはあなたがたの力です」という元々の原文は凄い名文だと思います。愛着を覚えますね。日本語訳と大変な相違です。
 とはいえ、先にあげた明治版の元訳の力強さも忘れられない良さがあります。この言葉のDNAが改訳委員会にも働いたのかな、と失礼ながら推察してもみました。
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 私はなんと言っても。この原意を取ります。私たちの力は「エホバの喜びから来る」、喜びの原点は神にあります。しかも、旧約聖書では「主」というよりは、はっきりとエホバ(ヤハウェ)とある。
 私の個人的自分勝手な解釈ですが、旧約聖書でエホバという方が現れるときは、それはまず先在のイエス様と考えてよいのではないかということです。
 キリスト様は新訳の時代には預言者たちの予言した約束の方としてベツレヘムにお生まれになり、ナザレで過ごされ、ついにガリラヤからエルサレムへと福音宣教の活動を広められ、ついにゴルゴタの丘の上で十字架につかれ、ヨセフの墓に葬られ、3日目に甦ってオリブ山から天に帰られる。
 しかし実は、旧約の時代にもキリスト様はしばしばイスラエルの民の中に現れてくださっていた。その際、しばしば(あるいは常に)旧約聖書の記者は。その方をエホバ(ヤハウェ)と書いたのではないか、と私は想像するのです、
 モーセとしばしば顔と顔を合わせて語られたというエホバの神、また士師記のギデオン伝を読むと、エホバの神とギデオンとの対話の活き活きとした描写には興奮させられます。そこには活人劇とも言いたいものがあります。
 そこで、新約のイエス様の姿に目を移しましょう。イエス様が笑ったという記事は聖書にはありません。しかし、72人の弟子たちが伝道旅行から帰って来て、イエス様がその報告をお聞きになって大いに喜ばれたという記事がルカ福音書10章21節にあるのです、言わく「その時、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、云々」と。
 この「喜びあふれて」という言葉は原典のギリシャ語ではアガリアオウとあり、字引をひくと「非常に喜ぶ、狂喜する」などとあります。このアガリアオウは、他の使用例では山上の説教のマタイ5・12の「喜び、よろこべ」とか、イエス様を宿したマリヤを迎えたエリサベツの体内で胎児のヨハネが「喜びおどった」などと使われているのです。
 イエス様の語られた比喩に、主人がタラントを儲けてきて主人に褒められる僕の記事(マタイ25・21)があります。そこで主人は言うのです。「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。
 この最後の「主人と一緒に喜んでくれ」という個所が、原文では「お前の主人の喜びの中へと入れ」とある。
 私たちの主人、イエス様がワッハッハハと手の舞い、足の踏むところも知らないように喜ばれた、そのような「歓喜の中に入ってこいよ」と言われるのでしょうか。
 弟子たちの伝道の報告に狂喜乱舞されるイエス様です。「小さな僅かなことにも忠実であった僕よ」と、私たちもイエス様に喜ばれる者でありたいですね。然り、私たちの小さな小さな働きをイエス様は喜んで下さるはずです。
 そのイエス様の大いなる喜びの中に私たちはもぐり込みたいものです。そのイエス様に抱きついて、私たちも喜ぼうではありませんか。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-01-09 17:38 | 日岡だより
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