No.260 クリスマスを感謝し、新年を祝福します 2006.12.24

クリスマスを感謝し、新年を祝福します

 今年は西暦2006年でした。この教会の週報では聖暦2006年と記してあります。今年が2006年というのはイエス・キリスト様が、この地上にお生まれになって2006年ということですから、イエス様を「主」と信じる私たちにとって、これは聖なる暦年であります。故に聖暦と称するのです。
 イエス様の誕生によって、人類の歴史は脱皮し、未来が始まったのです。イエス様によって、地上に神の国の福音がもたらされました。神の国とは未来志向の国です。なぜなら、
 もともと、時間は神のみ許からやって来るものだからです。使徒行伝第3章20節に「主のみ前から元気回復の時が来て……」(私訳)とあります。時間は神の臨在の中から来るのだと言えます。時間は過去から引きずってくるものではなく、未来から新鮮なリフレッシュなエネルギーを持って来るのです。
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 だから信仰のない人だって、未来に希望の目を注ぐ人は成功的人生を送ります。クリスチャンと言えども過去ばかりに気をとられ、後悔や、過去を懐かしがって生きる人は消極的人生になります。
 旧約聖書の時代は、とかく過去の罪を責めて、未来を封じ込む預言が多いようです。しかし、イザヤ書は違います。たとえば、こうです。
 「主はこう言われる。
 あなたがたは、先のことを思い出してはならない。
 また、いにしえのことを考えてはならない。
 見よ、わたしは新しい事をなす。
 やがてそれは起こる」(イザヤ43:17~19)。
 「イエス様はイザヤ書を愛誦された」と若い時にどなたかの本で読んだ覚えがあります。
 イエス様はエルサレムにおける十字架と、その死を当初から覚悟しておられました。しかも、エルサレムにみ顔を向けて、先頭に立って行かれた。その故に弟子たちは驚き怪しみ、かつ恐れたとあります。
 イエス様は十字架の死をなぜ恐れられなかったのでしょうか。イエス様は十字架の後にやってこられる3日目の復活と、昇天について確信を持っておられたからです。《く》


信仰の三つの角度

 東京都あきる野市の秋川集会のクリスマス礼拝を司式して帰途、中野駅に降りてリバイバル新聞社に寄らせて貰った。谷口社長に会いたかったのであるが、そこで図らずも久保田編集長に会った。私は初対面である。私はこの人に非常に良い印象を持った。
 何よりも嬉しいことに、私の「日岡だより」などの文章をよく読んでくれている。そのレスポンスの良さに驚いたのである。
 ところで、このリバイバル新聞社で、広島キリスト教会の植竹利侑先生の手書きらしい短文の紙片を見せて貰った。さっそく、私はそれをポケットに入れて、羽田空港に向かった。そそくさと急いだ。落ち着かない気分であった。
 私はモノレールで、その紙片を読んだ。読みたかったのだ。空港に着いて、機中にはいって席に着くや否や、再び私は植竹先生の手書きのこの紙片を読んだ。短い文章であるから、何度も読める。この紙片の文章が、私に大きな転機を与えた。
 これは全文を転記したいほどであるが、その概要を紹介し、特に、重要部分は抜粋して以下に載せたいと思う。
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 先生は東京に生れ育って、空襲で家を焼かれ、埼玉のほうに疎開されたという。そこで16歳の春に主イエス様に出会い、人生が一変した。
 お父上は戦争中に逝去なされ、弟妹は多く、貧しかった。しかし、幸い自由であった、そこで教会に入りびたり、すべての奉仕を買って出た。
 旧制中学を終えて、あこがれのホーリネス聖書学校に遊学、そこで星野栄一師によるジョン・ウェスレーの「キリスト者の完全」の授業が始まった。「これは正に私のための授業だった」と植竹先生は言っている。先生は次のように述べている。
 ウェスレーは、その第一頁から「敬虔」の先達者たちを語る。その方たちは神を愛することに命をかけた人たちだった。ウェスレーは自分の決意と努力で彼らの後を追おうとした。しかし、それは自力による修業の限界を悟り、そして聖霊の働きに身を委ねる契機となった。
 ウェスレーは言う。人はイエス・キリストに出会い、その救いにあずかると、魂が喜びに満ち溢れ生活が一変する。彼らはその平安と喜びの中に、数日、数週間、数か月間、とどまることが出来る。
 しかしある日、かつて自分を悩ましていた古い敵、すなわち、怒り、欲望、ねたみ、高慢、人をさばく思いなどが再び現れる。そして、罪の攻撃を受け、恐れを生じ、打ち倒される。
 かくて、自分の救を疑い、赦されたことを疑い、これは自分の思いこみに過ぎなかったのではないかと思うようになる。
 しかし、ほとんどの場合、主ご自身が、聖霊を送ってくださり、教えてくださり、神の子として証ししてくださるのである。
 植竹先生自身、まだ救われて半年のころ、自分が一番よい奉仕をしていたのに、奉仕をしないで本ばかり読んでいた青年を、牧師が講壇から褒めるのを聞いたのである。
 その時、激しい嫉妬の炎が燃えるのを感じて先生は愕然とした。嫉妬ばかりか、まざまざな悪が心に眠っているのを知って驚いた。罪の根、罪の性質が残っていた。
 犯した罪はゆるされるが、罪の性質はきよめられねばならない。そこで、先生は授業で教えられたとおり、自分をささげてゆき、ついには全き無の状態になり、先生自身、キリストと共に十字架につけられた! という境地に到達した(その方法、経過については後で、くわしく語ることにすると併記されておられるが)。とにかくその日から先生は変わったと記しておられる。
 あの宿敵のねたみがなくなった。怒り、憎しみ、悪意が消え、誇り、高ぶり、恐怖心が去り、イライラ、不機嫌、むさぼり、自我が砕かれ、自己主張が消えた。
 先生は言われる。「私が、私の著書の中で、『私が人を非難し、人を罵り、不機嫌になり、荒々しく人を扱ったのをみた人がいたら、申し出てください。100万円の罰金を払いましょう』などと書きましたが、それは私のこの17歳のときの、潔めの経験のゆえです」と。
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 私は植竹先生の手書きの紙片を拝見しつつ、私がこれまで時おり読んできた「聖潔の勧め」の本と、些か、違うところを発見したように思いました。それは先生が「主に自分をささげよう」とするときの、ちょっとした文章のくだりに、こう書いてあったからです。
 「そこで、私は授業で教えられたとおり、自分をささげてゆき、ついには全き無の状態になり、私はキリストと共に十字架につけられた! という境地に到達した」という一節です。その中の次の傍点の個所、「自分をささげてゆき……」です。
 多くの類書では、ある一瞬に来て、その一転で突然「全く、ささげました」となるのである。それが私には、どうしても不得意で、うまく行かない。たじたじとなって、後ずさりする、そして肝心の一瞬の機会を取り逃がし、聖潔の好機を逸したという感じになるのです。
 私はこの時、思った。「なるほど、『自分をささげてゆき……』だな。これで行こう」。この「ゆき」という言葉が、決意の一瞬のことでなく、暫時の経過をさしていると感じたのだった。私はこの植竹先生の語調に倣ったのです。
 つまり、私は心の中で何度も「ささげます。ささげます。ささげます、……」と繰り返してみた。そして、
 微妙な一瞬が来た。ともかく曖昧ながらも、主の前に自我をささげました、という時がきたのです。その時、私は自分の内心に新しい心境が湧いた。悪しき、汚い、そして不安や、イライラが消えているのを感じた(曖昧でなくなった!)。私は心に「ハレルヤ」と叫びました。
 私は大分に帰ると、すぐ植竹先生に電話して、この報告と礼を述べた。先生は大いに喜んでくださった。
 ハレルヤ!、ハレルヤ! 感謝一杯であった。
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 私はキリスト教の信仰を三つの角度から説明したい。第一は「義認の信仰」、第二は「聖霊充満の信仰」、そして第三は「聖潔の信仰」である。
 しかし、それぞれ、危険がある。第一のそれは、「言葉だけの思い込み」思弁信仰になりやすい。第二のそれは「異言をムニャムニャ言うだけ」の愚昧信仰になりやすい。第三は「おのれを聖別しよう」とする努力主義の律法信仰になりやすい。
 この三つをきちんと、まとめて保持することは、きわめて難しいことですが、使徒クラスの先輩諸師はそれを完成していたと思う。
 しかし信仰の世界は不思議です。この一つの角度だけからでも、深く浸透し徹底すると、全体をすべて把握したかの如き、聖なる人格と生活を実現することがあり得るのです。義認信仰なら義認信仰だけ、しっかり握ることです。すでに天に帰られたが、伊予三島真光教会の牧師だった金田福一先生こそ。このタイプの第一人者であられたと、私は思っている。
 これ以上、語ることは私の力に余るようです。この辺で文を閉じます。《く》

〔あとがき〕
クロスロード・ゴスペル・チャーチの会堂献金について。当初の5千万円については、先週の本欄で暫定的にご報告しましたが、一応ある方からのご献金で一挙に解決できた訳ですから、感謝でした。以後、室内インテリアや、外観のリフォームのために、なお2千万円は必要ではなかろうかと、これは、私(釘宮)の勝手な試算ですが、各個人から、また当教会でまとめての献金等が考えられますので、それぞれご用意しておいて下さい。▼この12月16日(土)から、18日(月)まで、東京に行ってきました。最近は体もなまってきましたので、他出も控えてきていますが、東京秋川集会には何としても年2回は出たいと思い、出かけてきました。人数は少なかったですが、温かい礼拝の集会が営めて、感謝でした。赤坂家では、特に静ひつの時間が与えられ、「大分の自宅では案外祈れていなかった、という牧師としての生活上の欠陥に気がつきハッとしました。牧師は案外、自宅では忙しいばかりで時間が足りないのですね。なお、周辺のご家庭を2、3訪問しましたが、癒しと、祈りと、交わりの時間が与えられて、感謝でした。《く》

〔小冊子類の紹介〕
「笑えば必ず幸福になる」、「だれでも出来る『心の強化法』」、「欝から抜け出すには」、「信仰の確かさ」、「ヨブ記説教集」、「告白の力」、「死を考え、生を考える」&「私の兵役拒否記」(新聞連載合本)、「喜んで(笑って)祈る私の実践」等、いずれも頒価100円以下、もしくは無代です。ともあれ、お申込みあれ。お送りします。代金等、後で結構です。《く》

注)現在、「笑えば必ず幸福になる」、「だれでも出来る『心の強化法』」、「信仰の確かさ」、「告白の力」は、教会ホームページで読むことができます。
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by hioka-wahaha | 2006-12-25 10:44 | 日岡だより
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