No.257 アドベントを迎える 2006.12.3

アドベントを迎える

 今日からアドベント(待降節)です。クリスマスの主日(日曜日)までの期間をさします。アドベントとはラテン語の「来る」に由来します。これはイエス様の降誕と、更にイエス様の再臨を期待して、これをことほぐために設けられた祝日だそうです。
 もちろん、クリスマスを意識しての待降節だとは分っていましたが、主の再臨待望まで含められていようとは思いませんでした。
 ご再臨を大事に思っていないというのでは決してありませんが、ご再臨を待望するというのなら、もう一つ、聖霊降臨つまりペンテコステを待望する40日間も作ってよいではないかと思うのです。
 しかし、そんなことをすると実際には受難節から続いて、80日間に及ぶことになりますから、それでは長すぎるということで、ペンテコステ待望の節日は見送られたのでしょうか。
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 それはともかく、私は少年時代は親に連れられてずっと教会に出席していましたが、その間ずっと、アドベントなる祝日を教会で祝ったことはありません。その後も、青年時代から今日に至るまで、2、3の教会を転々とした時代もありましたが、その経験は一度もないのです。
 ですから、今こそ、私はこの期節を、「主のクリスマス」を迎える強い意識を持って過ごしたいと願っているのです。私たちのうちに、イエス様のご誕生をしっかりと体験しましょう。
 これを「キリスト体験」と言いたい。多くのクリスチャンの方々に案外、この体験が少ないかもしれません。私たちのうちにイエス様が居られるなら、その方こそ、コロサイ1:27によると、「信仰の『奥義』なのです。イエス様をあなたの心にお迎えください。《く》


すこぶる現実的な非戦主義

 マルコーシュ通信の22号で、非戦論について「理想と現実」というタイトルで、笹井さんがご意見を書いて居られた。
 その中で「釘宮牧師の『降服論』や、岡山牧師の『敵国が攻めてきて、家族が殺されるよう目に合っても私は戦わない』主義、これは現実的でない、単なる理想論ではないのか、これはやはり極端な議論である」と言っている。
 だれも、うなずくご意見だと思います。私にも、それはそれで分かるのです。笹井さんは、そのついでに内村鑑三の斎藤宗次郎の花巻事件をあげています。私は若いときは内村鑑三一辺倒でした。
 それでも、例の花巻事件だけは首をかしげざるを得なかったのです。兵役を拒否しようとする斎藤宗次郎のところにあわてて飛んで行って、「真理と真理の応用を混同するな。もしそんな事をしたときの家族たちの迷惑を考えたことがあるのか」。
 こんな次元の低い説得を内村先生がするとは? と、私は思ってしまう。私は今も熱烈な内村フアンであることには間違いないが、この点だけは先生に不満を感じます。
 「あなたの父母、兄弟はあなたがたの敵である」というイエス様の言葉は多くの人にとり、難解であろう。その文字上の解釈がむつかしいというのではない。そうした現実が起こり、それに対処しようとするとき、「現実」に応用して妥協しようか、喧嘩をいとわず「真理」に従おうか、という分岐点に来て、このイエス様のお言葉は実践的な難解になるのである。
 笹井さんの「理想と現実」という言葉の揚げ足をとるつもりではなく、私は本気で「現実」という言葉を俎上にあげてみたいのである。私の「降服論」こそが、本当に現実的なのであると思っている。「降服論」という言葉は適切ではないが、本論を読んで下されば、その真意はお分かりになると思う。
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 まず、岡山牧師の「敵国が攻めてきて、家族が殺されるよう目に合っても私は戦わない」という主義は、現実にはどういう場合に起こるだろうか、考えてみたい。
 2つの国が互いに「宣戦布告」をしたかどうかは別にして、相手の国の兵隊が目の前に攻め込んで来た場合、抵抗はしないで家族全員殺されても構いません、ということである。
 これはなんとも厳しい信仰態度であるから、家族には気の毒である。しかし、家族の長としての彼の態度に喜んで従ってくれるのなら、イエス様の教えどおりの行動であるから、どこにも非難すべき所はない。もし、それを嫌がる家族がいるなら、しかるべき親族なり、友人にお世話を頼むべきであろう。
 こういうことが起こっても、それだけのことで、国が滅びるの、どうのと言うことはない。一家族が全員が死んだとて、その国家の存亡にかわる事ではない。
 敵部隊の侵入という現実は、たとえば日本の領土に敵国の一部隊が上陸してきたという時、あるいはパラシュートで舞い降りてきたという時に起こるのだが……。前の戦争では沖縄がその悲劇に見舞われたわけだが、国民の覚悟としては、特に宮崎県の人たち、関東の茨城県の人たちは、本気で心配もし、覚悟もしたものだ。今言えば、笑い噺になるが、婦人たちが竹槍をもって突撃訓練をしたのもその時で、けっして笑い噺ではなかった。
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 ある人に言わせれば、家族全員無抵抗で死ぬというのは全く独りよがりの「ムダ死に」ではないかということになる。この際、次のように言って責める人もいるだろう。
 「イエス様は言われた。『人が、その友のために死ぬ。これより大いなる愛はない』。他の多くの人たちは国を守り、国民を守るために死んで行く。そのような人々の愛に背いて君は勝手に自分一人の信条を守るために死んで行くというのは、それは狭い了見だよ、個人主義だよ、わが儘だよ」と。
 私も実は、戦争中の教会のクリスチャンの人たちから、この意見で批判されて、返答に窮したことがある。
 以上の例で見てほしいのは、現実的には、個人が家族単位で「敵に甘んじて殺される」ことがあっても、国家のレベルでは別に大した影響は受けないということである。
 「いいえ、国民全体が敵の爆弾や水爆に殺されても厭わないという、そんな無防備な態度をとれば、国全体いっぺんに滅んでしまいます」、と言いう人もあろうか。しかし、そういうことは現実的に起こりえないのです。なぜか。
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 国民の全部とも言いません。国民の半数以上が、そうしたガンジー流の無抵抗信念を持っていたとすれば、すでにそのような平和原理主義で立っている総理大臣なり、政府が出来上がっているはずです。
 そのような政府がある場合、もっと早い段階で両国の間で「話し合い」は出来ているはずです。それが「降服」覚悟の「話し合い」会議というものです。
 最悪の時でも、向こうの軍隊がはいってきて、政府なりを作って支配するわけですが、それは1945年に終戦になって、マッーカーサー率いるアメリカ軍がやってきて占領された我が国の様相が再現されるわけです。
 太平洋戦争なんかしなくて、ハルノートに穏やかに唯々諾々と従っていたとしたら、人は死なず、資産は残る。町も工場も、商店も学校も残り、天下太平、終戦後の日本の経済反映をはるかに越えて、日本繁栄、バンバンザイだったはずです。
 ただ気になるのは、「それでは日本国家、国民としての誇りはどうなるのですか。無惨な憐れな、誇りの失せた五等国民が残るだけではありませんか」と、いうことでしょうね。
 ここで、現実主義に立って、考えてみてください。日本が、そういう国になったとして、ありえないことでしょうが、そういう国になっているとすれば、総理大臣はたとえば、この釘宮がなっているとしましょうか。
 私の信仰が国民的に受けいれられ、私の平和原理主義が国民の間でコイズミさん以上に人気があるとすれば、その時の日本国民の誇りはキリスト信仰にもとづく確信と誇りです。世界歴史にかつても無かった麗しき心情豊かで、堅固な信仰に満ちた国民の国になります。
 いや天皇陛下ご夫妻も、総理大臣も、その他、優れた人々が皆、クリスチャンになって、それこそ戦時中の標語でないが、「一憶一心」、平和と愛と信仰と希望に満ちた国になるのです。
 ですから、外交姿勢はすべて善意と愛と信念に基づきます。それは平和な「対話外交」です。
 戦争になってから、無抵抗の平和主義、では決してないのです。戦争を既におっ始めたような国の中で、国をあげての無抵抗を国に要求する国民はもう国には居れないのです。捕縛されて刑務所に行くか、主戦論の市民にリンチで殺されるだけです。これが私の言う現実です。
 もし私のような平和原理主義者が総理になり、国会議員の半数以上が平和原理主義者であり、それを国民が理解しているようになった時、初めて前記のような「腰が弱い」とも言える「対話平和外交」ができるのです。そういう国民をバックにして対話外交をもってくる外交団を、これまでの各国は体験したことがないのです。
 国連はそういう国を尊敬せざるをえません。すくなくとも、そういう態度をとります。世界の国々は日本にたいして拍手を送らないでしょうか。
 前代未聞のノーベル平和賞が日本国家に与えられのではないでしょうか(マンガだとは思わないでください)。その時、憲法九条は誇りかに厳として残るでしょう。ただし今の憲法の前文には、ぜひ変えてほしいところがあります。いや、その時には既に変わっていることでしょうね。どこが変わっているでしょうか、憲法前文を調べてみてください。ただ平和の神様を信じるのです。《く》

〔図書紹介〕
 キリスト教の本ではありませんが、推薦したい本があります、アンソニー・ロビンズ著・本田健訳「一瞬で自分を変える法」(三笠書房発行・1400円)という本です。後半はすこしダブつく感じですが、前半は非常に良いです。実は私の書いた「だれでも出来る『心の強化法』」を完成したような本です。私の言いたいことを、もっとくわしく、学問的にセンセイショナルに書いています。ぜひお読みください。▼「人の心は2つに分かれている。その2つの心(意志、もしくは人格と言ってもよい)の間に、命令や説得や自己確認、行動転化があって、精神が強化され、性格変換が行われる」という私の説が敷衍されている感じです。私はこの説の元々は詩篇57篇などから学んだのです。博士号も取れる発見ではないかと自負していますが、これは自惚れかな。▼私の「だれでも出来る『心の強化法』」を入門書と思って、このアンソニー・ロビンズの本を読んでください。私たちが折角信仰を頂きながら、なかなかそれを実生活に強力に活かせない、そのような弱点を一挙に変えるコツを教えてくれていると思います。書店で手に取って見るだけでも良いでしょう。逆に私の本の入門書になるかもしれません、呵々。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-12-05 14:20 | 日岡だより
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