No.255 いじめ問題と自殺問題は緊急の祈りの課題 2006.11.19

いじめ問題と自殺問題は緊急の祈りの課題

 今、日本の問題は「いじめと自殺、それと子殺し」です。経済問題も外交問題も小さい問題ですよ。母親が4歳の幼児を殺した、こんなニュースが飛びだしてくる国は世界で日本だけではないでしょうか。
 日本は経済はアメリカについで世界第2位、文明や文化についても、世界的に傑出した国だと自負しても可笑しくはないと、思っていました。
 しかし、「幼児を殺す」(生活が苦しくての心中まがいの「子殺し」)ではない、「うるさいからカッとなってなぐり殺した」など、こういう有様は日本よりはるかに文明度の低い国と思われている後進国の国々でも、聞かれない話ではないだろうか。
 鉄道も敷かれていない。学校も少ない。テレビがない。偶像が氾濫している。そんな国でも、親が子を殺し、子ども同士にいじめがあるなど、そんな国はないのではないか。
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 日本には昔、教育勅語というものがあった。その中に、たしか「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」などとあったと思うが、「親は子を殺すな」などとはありもしない。
 経済水準、教育水準、こうしたことに日本がどれほど高くても、子ども同士や、子どもに対する親の人格尊重は、世界最低なのかも知れない。
 これは敗戦によってすっかり失われた日本人の心なのでしょうが、このための日本のキリスト教会の負うべき責任は重いと思うのです。
 今こそ、全教会の祈りの結集が求められているのでないか。また、日本の宗教界全体が目を覚ます時だとも思う。《く》


すこぶる現実的な非戦主義

 マルコーシュの笹井さんが非戦論について「理想と現実」というタイトルでご意見を書いて居られた。その中で「釘宮牧師の『降服論』や、岡山牧師の『敵国が攻めてきて、家族が殺されるような目に合っても私は戦わない』主義、これは現実的でない、単なる理想論ではないのか、これはやはり極端な議論である」と言っていました。だれも、うなずくご意見だと思います。私も分かります。
 笹井さんは、その中で内村鑑三の「斎藤宗次郎の花巻事件」をあげています。私は内村先生の信仰、特にそのお弟子さんの石原兵永さんの「回心記」によって信仰に導かれたので、若いときは内村鑑三一辺倒でした。
 それでも、例の花巻事件だけは首をかしげざるを得なかったのです。兵役を拒否しようとする斎藤宗次郎のところにあわてて飛んで行って、「真理と真理の応用を混同するな。もしそんな事をしたときの家族たちの迷惑を考えたことがあるのか」と言ったというのです。こんな次元の低い説得を内村先生がするとは(?)と、私は思ってしまうのです。私は今も内村フアンですが、この点だけは先生に不満を感じる。
 「あなたの父母、兄弟はあなたがたの敵である」というイエス様の言葉は多くの人にとり、難解であろう。その文字上の解釈が困難だというのではない。そうした現実が起こり、それに対処しようとするとき、「現実」の状況に妥協しようか、「真理」の言葉に従おうか、という分岐点に立って、このイエス様のお言葉は実践的な意味で難解なのである。
 笹井さんの「理想と現実」という言葉の揚げ足をとるのではなく、私は本気で現実という言葉を俎上にあげてみたいのである。
 実は私の「降服論」こそは、本当に現実的なのである。「降服論」という言葉は多少適切ではないが、本論を読んで下されば、その内に分かってくると思う。
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 まず、岡山牧師の「敵国が攻めてきて、家族が殺されるような目に合っても私は戦わない」という主義は、現実にはどういう場合に起こるだろうか、考えてみたい。
 2つの国が互いに「宣戦布告」をしたかどうかは別にして、相手の国の兵隊が目の前に攻め込んで来た場合、抵抗はしないで家族全員殺されても構いません、ということである。
 これはなんとも厳しい信仰態度であるから、家族には気の毒である。しかし、家族の長としての彼の態度に家族が喜んで従ってくれるのなら、イエス様の教えどおりの行動であるから、どこにも非難すべき所はない。(もし、それを嫌がる家族がいるなら、しかるべき親族なり、友人にお世話を頼むべきであろう)。
 これだけのことで、国が滅びるの、どうのと言うことはない。一家族が全員が死んだとて、その国家の存亡や動向に係る事はない。
 そういう現実は、かつての日本ならアメリカの一部隊が上陸してきた時、あるいはパラシュート部隊が舞い降りてきた時に起こる。先の戦争では沖縄がその悲劇に見舞われたのだが、当時の国民の覚悟としては、特に次は宮崎県かと心配する宮崎の人たち、あるいは東京に近くて心配な茨城県の人たちは、本気で覚悟もしていたものだ。今言えば、笑い噺になるが、婦人たちが竹槍をもって突撃訓練をしたのもその時で、けっして笑い噺ではなかった。
 茨城県の若い女性だったと思うが、彼女は日本帝国の勝利を願って、「天皇陛下万歳」と叫んで投身自殺をした、現今の諦めや絶望の自殺ではない。お国のための人柱覚悟の自殺である。そういう雰囲気は誰にも共感できた、そういう時代であった。
 ある人に言わせれば、家族全員無抵抗で死ぬというのは全く独りよがりの「ムダ死に」ではないかということになる。この際、次のように言って責める人もいるだろう。
 「イエス様は言われた。『人が、その友のために死ぬ。これより大いなる愛はない』。他の多くの人たちは国を守り、国民を守るために死んで行く。そのような人々の愛に背いて君は勝手に自分一人の信条を守るために死んで行くというのか、それは狭い了見だよ、個人主義だよ、わが儘だよ」と。私も実は、戦争中の教会のクリスチャンの人たちから、この意見で批判されて返答に窮したものだ。
 以上の例で見てほしいのは、現実的には、個人が家族単位で「敵に甘んじて殺される」ことがあっても、国家のレベルでは大した影響はないということである。
 「いいえ、国民全体が敵の爆弾や水爆に殺されても厭わないという、そんな無防備な態度をとれば、国全体いっぺんに滅んでしまいます」、と言う人もあろうか。しかし、そういうことは現実的に起こり得ないのです。なぜか。
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 国民の全部と言いません。国民の半数以上が、そうしたガンジー流の無抵抗信念を持っていたとすれば、すでにそのような平和原理主義として立っている総理大臣なり、政府が出来上がっているはずです。そのような政府がある場合、もっと早い段階で両国の間で「話し合い」が行われているはずです。それが「降服」覚悟の「話し合い」会議です。
 最悪の時でも、敵国の軍人や軍屬がやってきて、臨時政府でも作って管理することになりますが、それは1945年に終戦になって、マッカーサー率いるアメリカ軍がやってきて占領された時の有様が再現されるだけのことです。
 真珠湾攻撃などしなくて、ハルノートの無茶な恫喝にも穏やかに応じて、唯々諾々と従っていたとしたらよかったのです。人は死なず、資産は残る。町も工場も、商店も学校も残り、天下太平、終戦後の日本の経済繁栄をはるかに越えて、日本バンバンザイのはずだったのです。
 ただし、気になるのは、「それでは日本国家、国民としての誇りはどうなるのですか。無惨な憐れな、誇りの失せた五等国民が残るだけではありませんか」と、いうことでしょうね。
 ここで、現実主義に立って、考えてみてください。日本が、そういう国になったとしても、たとえばありえないことですが、そういう国になっているとすれば、総理大臣はたとえば、この釘宮がなっているとしましょうか。
 そのとき、私の信仰と主張が国民的に受けいれられ、私の平和原理主義が国民の間でコイズミさん以上の人気になっているとすれば、その時の日本国民の誇りはキリスト信仰にもとづく確信と誇りです。世界歴史にかつて無かった豊かで堅固な信仰と秩序に満ちた国民の国になっているはずです。
 いや天皇陛下ご夫妻も、総理大臣も、その他、優秀な人々が皆、クリスチャンになって、それこそ戦時中の標語でないが、「一憶一心」、平和と愛と信仰と希望に満ちた国になっているのです。
 ですから、外交姿勢はすべて善意と愛と信念に基づきます。それは平和な「対話外交」です。
 はっきり言えば、戦争になってからの無抵抗の平和主義ではないのです。戦争を既に始めているような国で、無抵抗主義で戦争体制に従うような国民は既にいるはずはないのです。もし居るとすれば、そういう非戦主義者は国権によって獄中に捕らえられているか、もしくは主戦論の過激派のリンチにあって殺されているかもしれません。これが私の言う現実です。
 (非戦論者と非戦主義者とは違います。非戦主義者は前述のように捕らえられるか、殺されるかです。しかし、非戦論者は世間の片隅で小さくなって、心のなかで「それでも戦争はしてはならないんだ」とつぶやいているだけでしょう。それでも、主戦主義者になって激論を飛ばしているよりはましです。)
 もし私のような平和原理主義者が総理になり、国会議員の半数以上が平和原理主義者であり、それを国民が支持しているとすれば、前記のような「腰が弱い」とも言える「対話平和外交」ができるのです。
 そういう国民をバックにして対話外交をもってくる外交団を、これまでの各国は歴史上経験したことがないのです。
 国連はそういう国を賛嘆せざるをえません。さっそく、臨時総会を開いて日本を称賛決議することでしょう。世界の国々は日本に対して気後れしながらも、拍手を送らないでしょうか。
 前代未聞のノーベル平和賞が日本国家に与えられるのではないでしょうか。マンガだとは思わないでください。
 その時、憲法9条は誇りかに厳として残るでしょう。ただし今の憲法の前文には、ぜひ変えてほしいところがあります。今の日本国憲法は偽装憲法です。偽装建築より危険です。いや、その時には既に変わっていることでしょうね。どこが変わっているでしょうか、憲法前文を調べてみてください。ただ平和の神様を信じるのです。《く》

〔あとがき〕
どうも時間が無いのと、ぼつぼつ作文能力が貧しくなってきていて、出来の悪い文章になりました。意図ははっきりさせているつもりです、意のある所を汲んでください。国を愛し、民に警告する預言者が出るべき時になっているのですね。預言者待望の時です。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-11-21 11:13 | 日岡だより
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