No.254 雄叫びの祈り 2006.11.12

雄叫びの祈り

 「祈りは人間を内側から変えます」と、オズワルド・チェンバーズ師は言っています。相手を変えるのではなく、自分が変わるのです。
 ある姉妹が隣家の人と仲たがいしそうになりました。金がからんで、憎しみと不安でいっぱいです。思わず祈りました。フッとお言葉が心に湧きました。
 「なんじら思いわずらうな」、このお言葉が心に深く浸透しました。
 心を締め付けていた牢獄の鎖のようなものが音をたてて落ちました。隣家の奥さんに気軽に声をかけることができました。
 「いやあ、私の問題はもっと大きいのです。私も祈っているんですが、どうにも問題は解決しません」
 そういう方もおられましょう。人生は問題の多いところです。なかなか問題が片付きません。
           *
 そこで、皆さんに「雄叫びの祈り」をお勧めします。絶叫して祈ってください。家人の聞いている家の中では祈りにくいかも知れませんね。
 車を運転される方は、車にこもって祈ってください。私の知っているある牧師先生は、よく自家用車に乗って裏の山の峠に行って祈っていました。
 一番よいのは教会の礼拝室です。私は、毎朝の早天祈祷会の後に、残って祈ります。その時、しばしば「絶叫型祈祷→雄叫びの祈り」です。
 その祈りを終わって教会を出る時には、私の心にイエス様が居られるような感じが信じられます。問題解決の道が開けてゆく確信も湧いてくるのです。試してみてください。
 それはさておき、「絶叫型笑い」はいかがでしょうか。すると、いつも笑いが心の中に絶えない。そういう人になれますよ。《く》


しっかり笑いましょう

 これまでも何度も言ってきたことですが、「笑い」はキリスト信仰の中心ではありません。しかし、信仰の重要な一部ですとは、言えましょう。
 パウロはピリピ人への手紙3章1節で言います。
「私の兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。繰り返して書きますが、私には煩わしいことでなく、あなたがたの安全のためでもあります」。
 パウロは「喜びなさい」と言うことは何度書いても嬉しいことであり、読むあなたがたの信仰の保全のためにも役立つことだと言っているわけです。
 「喜ぶ」ことは人間の重要な心の機能です。そして、その「喜び」を自分の意志を用いて、これを引き起こすテコの役目が「笑い」なのです。
 これは最も効率的で安全な道具だと思います。たとえ心の中では笑えるほど愉快でもなく楽しくもないにしても、無理に作り笑いをしてください。
 愉快な感情が少しでも心の中に湧き起こることは体験してみるとわかります。
           *
 正直に言って聖書の中に「笑いなさい」という命令も奨めもありません。イエス様がお笑いになったという聖書記事もありません。
 しかし、私は信じます。私たちが快活に笑って日々を生き、あるいはたっぷりニコニコと笑いをもって伝道や奉仕をしている姿を天から見られるなら、イエス様も天使たちも呵々大笑、喜んで下さるでしょう。
 体が弱った時、医者は点滴を入れて元気づけてくれます。「笑い」は弱った心を力づけ、憂欝な心に喜びを注ぎ込み、怠けた気分を振るいおこさせる心(精神活動)の点滴です。
 それは霊の内にひそむ信仰の潜在力、聖霊の賜物を外に向かって爆発させる導火線のようなものです。
 さあ、みなさん、しっかり笑いましょう。「ワッハッハハ、ワッハッハハ」。《く》 (週報1995年10月15日号より)


イエス様は私たちの友です

 「笑う門には福来たる」とは、日本の昔からのことわざです。最近は医学的にも証明されて、笑うことが健康の元だと分かってきました。そうです、笑いは健康の元、幸福の元です。
 とは言っても、強盗団のかしらが押し入り強盗から帰ってきて、「おお、子分ども、今日はよくやった。宴会だ。ワッハッハッハッハ」、こういう笑いは困ります。また、「イヒヒヒヒ」などという皮肉な笑いもいけませんね。
 「イエス様は笑っただろうか」という質問を受けました。私はイエス様はお笑いになったと信じています。イエス様こそ本当に笑った方だと信じています。なぜなら、イエス様こそ、最も人間らしい、人間以上に人間らしい方であったからです。ですから、最もすばらしい人間らしい笑いをされた方だと信じています。
 イエス様の喩え話にタラントの話というのがありますが、その中で、良い仕事をした僕(しもべ)を、その主人が褒めるところがあります。主人は言います、「よくやった、善かつ忠なる僕、主人と一緒に喜んでくれ」。ひょっとしたら、こんな場面です。
 「お前、いい仕事をしたなあ、嬉しいぞ、ワッハッハッハ」と主人は大喜びしているのに、僕(しもべ)が遠慮してかしこまっています。
 「おい、遠慮するなよ、わしといっしょに喜ぼうじゃないか」、主人は体をゆすって哄笑です。それを見て僕も声をあげて喜びます。これがイエス様が教えられた天国の姿の一つではないでしょうか。
 使徒パウロは言います。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい」(ピリピ4・4)。顔はニコリともしないで、心の中で喜んでいるなどという人も時にはいますが、でもやはり、顔も、声も、からだ全身も喜ぶのが本当でしょう。そこに友人がいるなら、皆で手を取り合って、小おどりして喜ぶ、そういうのがいいですね。
 どうぞ、あなたの脳裏にイエス様のイメージを描いてください。弟子たちのイメージも描いてください。そしてイエス様を中心にいっせいに手をあげて喜ぶ光景を心に描きましょう。声をあげて笑いましょう。おどりましょう。喜び笑いましょう。
 イエス様は私たちを友と呼ばれました。私たちはイエス様の友なのですから、イエス様を中心にして一緒になって喜びましょう。イエス様の喜びをあなたの喜びとし、イエス様の笑いをあなたの笑いとし、その笑いをあなたの習慣にしてしまおうではありませんか。《く》 〔週報1996年3月17日号より〕


私の 「笑いの提唱」 について

 私の「笑いの提唱」は、古い週報の記録を見ていたら、この号の第2頁に載せた1995年10月15日の文章が、今残っているものとしては最も古いのである。多分、この頃から公けに私も言いだしたものであろう。
 その頃、横浜の教会で牧会しておられた永井信義先生の大賛成が私を勇気付けたのである。それと、今は天に帰って居られる倉敷で牧会しておられた小橋護先生の豪快な笑いも実践的に私を応援してくださった。毎日のように、お送りくださった、絵入りの笑いのハガキには、しばしば腹を抱えて笑わせられた。
 「笑いは信仰とは何の関係もありませんが」と言いかけて、「そんなことはありません、笑いは聖書の重要な教えです」と手束先生から、ご注意を受けたことも忘れられない思い出である。
 また、手束先生からは毎年のように御教会に招いてくださって、私の「笑いのメッセージ」をさせてくださった。このご恩も忘れがたい。
 「いつか『笑いの神学』を書きたい」と小橋先生と語りあっていたが、先生は今や天界におられる。残念であるし、まごまごしている私のふがいなさが申し訳ないです。
 しかし、私の「笑いの提唱」は今では、世間でも常識的なことになってしまった。感慨無量です。私もだいぶ老化して、こういう古いものを再掲載させて頂いて、お茶をにごすような次第、お詫びします。ハッハッハッハ。《く》

〔あとがき〕
本日は「在天者祈念礼拝」です。ご遺族の方々でクリスチャンでない方もおられます。皆様には、お慣れでないキリスト教の礼拝式にお出でくだって、まことに恐縮です。ご容赦ください。▼今日は午後の墓前祭も予定していますが、天候のことを気にしていますが、無事別府霊園に行けますよう祈っています。▼天国におられる信仰の先輩の諸兄姉は、天にあって今日の式典を大いにお喜び下さっておられることと信じつつ。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2006-11-14 12:44 | 日岡だより
<< No.255 いじめ問題と自殺... No.253 何を祈るべきか?... >>