No.253 何を祈るべきか? 2006.11.5

何を祈るべきか?

 今週も、オズワルド・チェンバーズ師の「『祈りの時』を変える黙想」という本の初めのほうから抜粋します。
 ここでも、私たちの陥りやすい祈りについての誤りを指摘してくれるようです。《く》
           
 祈りを最後の手段と考える傾向が、私たちにはあります。
 しかしイエスはそれを「戦い」の第一線に置くよう望まれました。
 ほかにどうすることもできない時に、私たちは祈ります。
 しかしイエスによれば、何をするよりも先に、まず祈るべきなのです。
 神にとって最もふさわしい時に、神が解決してくださるのを、私たちは待ちたくありません。
 そこで、私たちは神のお手伝いをしたがります。
 時には自分の祈りに自分で答えようとさえします。
 たくさんの人の目に神がよく映るようにすることができれば、もっと多くの人がクリスチャンになるのではないか、というようなことを考えます。
 神はそのことを期待していらっしゃる?
 いいえ、そうではありません。

 神が私たちに期待していらっしゃるのは、祈ることです。
 いつでも祈り、そしてすべてについて祈るのです。
 喜びの時も、悲しみの時もです。
 神について語るのではなく、神に向かって
語りかけることを求めておられます。
 神のことを未信者の人々に語るよりも、
その前に彼らのことを神に語ってほしいと、
神は思っておられます。



私の徴兵忌避事件

 私の青年時代の徴兵忌避事件や戦後の無私の戦災孤児救済奉仕は、世間の人から見れば、奇異な事件であり、また驚いてもよい事件であろう。時おり、このことは出版関係で話題になることもある。
 最初は毎日新聞で、それを見て飛びついたのが創価学会の「潮」である。そして山村基毅さんの取材で「戦争拒否の十一人の日本人」という本の一部に収められた。
 最近では、近くにお住まいの藤沢万蔵さんが、戦後の大分駅の周辺で戦災孤児を世話した釘宮さんのことを誰も知らない。あの頃の釘宮さんをめぐる若者たちの姿を残しておきたいと言って文章にしているらしい。私にはこっそりだったから、私は先日それを知ってびっくりした。
 とは言え、私はあまりこれらのことを語らないし、文章にしない。ところが先だって「宗教者九条の会」の席上で、私の「平和論」を小一時間語ったら、評判になったという。
 各地から聞いて来る人もあるので少し整理しはじめた。特に書きたいのは、私の事件そのものもあるが、当時の日本の民衆の考え方など、過去を知るために大変役になると、聞いたこともある。そういう面も、ぼつぼつ書いてゆきたいのである。
 紙面の枠に沿って文章の格好をつけるのは、私の作文の習慣だが、今回はその習慣を捨てて、書きたいほど、右に左に揺れて、わがままに書いて行きたいと思っている。ご了承ください。
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 それではまず、徴兵忌避の件。それは昭和18年の8月だった。私に陸軍の召集令状が来た。私は召集に応じることを嫌って自殺をはかった。そのことが発覚して、警察につかまったのだが、この憐れな事件が、事の発端である。なぜ自殺か。
 私は生まれて3日目、医師に「このお子さんは全身が硬化する病気です。2、3日の命です」と言われたそうだ。父は泣いて祈った。「ラザロを甦らせ給いし主よ、幼な子を取り給うなかれ」と…。
 奇蹟的にその祈りが聞かれた。祈り始めて4日目、回復の燭光が見えはじめ、翌日には全く快癒したという。私は幼い時より、よくこの話を聞かされた。後遺症が小学校5年生くらいまで残っていて、誕生直後の医者の心配した生来の難病が実感できたものだ。
 こんなわけで、私は青年期の頃、自分の生命が何か余分のオマケのように思うところがあった。それに加えて、私の親友A君の哲学的自覚から来る雄々しい自殺行為にあこがれるところもあった。もう一つ、最後の引き金は吉田松陰の文書であった。
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 私の戦争観は「戦争は絶対悪なり」と断定するところから始まる。「なんじ、殺すなかれ」という神の戒めに背くことは絶対不可だという素朴な結論である。
 日本軍の支那事変については、これを軍部の無謀な行動だとして厳しく論難することは、幾分預言者じみて気分の良い面もあった。しかし、大東亜戦争となって天皇の宣戦布告が出されると、私の苦悩は極まるのである。
 戦争の責任は、いよいよ一部の軍部や松岡ごとき政治家のものではなく、天皇様のものになった。私は宣戦布告をした天皇様を諫めたかったが、そのようなことが当時出来るはずはない。反面、戦前の皇国民教育を受けた私は、天皇様に刃向かう不忠な臣民なりとの認罪感を持ってしまう。進退に窮する感じである。
 ちょうどその時、吉田松陰の遺稿を知った。「君主の誤りを諫言する者こそ真の忠臣である。また、諌めても聞かない君主には諫死、つまり切腹をもって諌めるほかはない」というのである。これに全く心を奪われた。まさに自殺する根拠を得たのである。
 そこへ前記のように召集が来た。私は一瞬、決心した。迷わずに、睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったのだ。ところが睡眠薬が多すぎたのか嘔吐して、母が気づいて医者を呼び意識が回復した。
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 入隊期日は目の前に来ていた。母をはじめ、心配して集まった親族のメンバーが、どうしたものかと相談したらしい。一番近しい従兄のRさんが、私の枕元にあった遺書を見つけ、開いて見たら天皇様への直諫状(?)だった。驚いて、そのまま鷲づかみ、風呂の焚き口に持っていって燃やしてしまったということを、後で聞いた。
 その従兄と伯父の2人が私につきそって集合地の宮崎県の都城聯隊に行くことになった。何よりも、私が途中汽車から飛び降り自殺を図るかもしれない、それを阻止するため見張るためであっただろう。また、車中で叔父たちから、重々軽はずみなことをするなと言い聞かせてほしいという親族一同の頼みなのであった。
 もちろん、「お前の命を大切にせよ」とか「母一人を残して勝手に死んだり、兵隊に行かないなどと国にたてつくようなことをするな」などと戒めてほしいわけだが、当時としては親族たち一同の願いは、「兵隊に行かない」などとは神国日本の国民として思いもよらぬ最大の罪である。その重大性をよくよく言い聞かせてほしい、というのである。更にその本音はこうであった。
 「そんなとんでもない非国民の罪を犯してくれては、この一族一統の面汚しである。恥さらしである。そんな子が親族におっては我々の息子、娘の縁談にも支障がある。特殊部落の親族があるより、まだ悪い。困るよ。お前」ということである。そういう思惑をいだいたのは、当時の一般庶民の心理としては当然である。
 だから召集地に向かう汽車の中で、耳にたこができるほど言われたのは、「とにかく召集の部隊に行ったら何も余分なことを言うな、黙っておれ、おとなしく軍隊に入ってくれ。頼む、頼む」。
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 さて当の聯隊に行った。細かい事は忘れているが、とにかく、軍医の前に立たされた。身体検査、又健康診断である。そこで軍医は私の体を見て、異常な衰弱ぶりに首をかしげ、「どうしたのか」と言う。私は汽車の中で伯父たちから、しきりに言われた言葉に、暗示にかかったかのように、アッサリと軍医に答えた。「ハッ、最近ずっと下痢をしていたのであります」。軍医はうなずいて言った。
 「慢性腸炎だな。現地除隊だ。家に帰れ」。これが後日、私が自殺行為を隠蔽して、病気を偽り、徴兵忌避を図った、と起訴される理由になった。その後、幾度か私の裁判記録でこの場面を読むが、その度、私の顔が赤くならざるを得ない。
 その前年、徴兵検査の時、私は覚悟していたのだった。「私はクリスチャンです。戦争に反対です。兵隊に行く気はありません」というつもりだった。ところが筋肉脆弱で丙種だという。その当時では、丙種はまだ現役に行く必要がない時であった。そこで、「兵隊に行く気はありません」というせりふを吐く機会がなくなったのだが、あの時の言うべきだったせりふを、なぜこの時に言えなかったのか。言えばよかったのだ。これが、それ以後、私の長い間の言いたくても言い出しえない私の恥ずかしい思い出になったのである。
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 これらの事件はいくら隠しても、隠しおおせるものではない。いつか警察の耳にはいる。19434(昭和18)年10月だったと思う。当時、長崎県の香焼島という炭鉱町にいた私のもとに大分から刑事がやってきて、まずそこの留置場に収監され、それから大分に連行された。私は気軽に大分まで無賃乗車するような風情だったと思うが、手錠もかけられず、大分に帰った。
 しかし、それからは大変。今ではどうかは知らないが警察の留置所は環境は最低。(それに比べると刑務所は聖潔で食事も上げ膳、下げ膳。洗濯は下着まで全部、洗濯専門の部門でやってくれる)。
 大分警察での取調べは楽だった。というのも、私はここでこそ私の非戦論、平和論はおおっぴら?に話せると思って聞かれないことまで、どんどんしゃべったからである。こんな取調べの楽な容疑者は見たことがないと、刑事部長が母に言ったそうである。
 そうした時、一度だけ刑事と一緒に家に帰ったことがある。私の日記やノート、関係図書等の証拠品集めのためだったが、手錠もはめられず、刑事と一緒に談笑しながら飄々と帰ったので、ちょうどその時の私を見かけた近所の婦人たちが驚いたということを後で聞いた。
 なんども書くが、もっと積極的、英雄的な徴兵忌避なら良かったのだが、こうして書くのも気がひける。しかし、書かねばおれないのは、以後につづく素晴らしい経験があるからである。
 警察で起訴されて、大分刑務所に移る。まず、未決監である。そこで、あることから「信念」のもろさに気づく。私は呆然となったものだ。壊れるはずもない「非戦論」の「信念」の一部が一瞬に消えた。私は呆然となった。私は「信念」ではなく、確固たる「信仰」を求めることになる。そして遂に、福岡の刑務所に行ってからだが、その独房で私は本当の信仰、回心を神様から与えられた、人生最高の経験である。それは1944年11月23日の午後5時ごろ、そばに時計があったら、その時刻も書けるはずであるが。その後も、信仰の尾根を辿ってきたが、その第一歩がこの日だ。思い出しても感謝が尽きない。そして私の恥ずかしい徴兵忌避物語も、これがあるからこそ、臆面もなく書くことができるわけなのです。《く》

〔あとがき〕
文体やフォームも整えて書くサービス精神が衰えて、気楽に、乱暴に書いてしまいました。今後もこの調子でしょう。ご容赦を… 《く》
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by hioka-wahaha | 2006-11-07 12:58 | 日岡だより
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