No.251 人は無私と愛の心を持てるか 2006.10.22

人は無私と愛の心を持てるか

 この10月1日の主日礼拝の説教の冒頭で、私は大胆に言ったものである。
「皆さん、今日は私たちが『無私、かつ愛の心』を持つことができる秘訣を話しますよ」と。
 大変な自信だが、私にはその自信があったのである。と言うのも、私のその朝の祈りで得たばかりのホヤホヤの体験だったからです。
 結論を先に言います。それは「執り成しの祈り」を励むことです。自分のことを差し置いて、他の人のために祈るのです。そうすると、この世的意味だけでなく、霊的な意味に於いてでさえも、自我心が無くなってしまいます。
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 ひたすら、他の人々のため祈りましょう。また、他の団体、教派、教会、また他の国々のために祈りましょう。そうすると、しだいに自分のことはそっちのけになります。祈っている間は、まさに無私の人であり、また愛の人であり続けます。
 その時、祈りを止めれば、元の人に戻っているかも知れません。多分どなたでも、失礼ですが、あなたでも元の人に戻っていることでしょう。
 しかし、その「執り成しの祈り」をしている時だけは「無私で愛の人」に変わっているはずです。
 人は同じ経験を繰り返し、継続して行くと長い間には、それが次第に、その人の性格になって行くのです。(人の気質は、その人の生まれつきのものですが、性格は生後の習慣的な生活のなかで、気質の周辺に張り付くようにして心の中に出来上がってくるのです。ですから……)。
 「執り成しの祈り」を、そのまま継続してください。あなたは生来の「祈りの人」の如き人になります。「無私で愛の人」になります。《く》


預言者的批判姿勢を越えて

 私は無教会で育ったので、若い時は内村鑑三先生を最高に尊敬しました。また藤井武先生や、矢内原忠雄先生が好きでした。こうした先生がたを日本の預言者だったと呼ぶ人は多いのです。
 内村先生が「今に、皇居の中で芋を作る時がくるよ」と言ったとか、藤井先生の「日本よ、亡びよ」の発言とか、同様の論調で筆禍事件(中央公論)となって東大を追われた矢内原先生等、いずれも旧約の預言者たちを彷彿とさせます。
 ところで、公務員や一般国民の堕落、愚行、非行、それらを悲憤慷慨し、預言者風に弾劾する姿は、理想主義の青年時代は、だれでも共感します。私もその一人でした。
 ところで、現代に目を止めましょう。一度、書いたことですが、東京都知事の石原慎太郎氏が新聞で大きく書いていました。
 「現代の日本人の劣弱さに我慢できない」というのです。分かりますね。同様の慨嘆は新聞投書欄に連日、出ていますよ。
 親が子を殺し、子が親を殺す。夫が妻を殺す、今は妻も夫を殺す始末。飲酒運転と言えば、公務員はまだしも、警察の警官殿までが飲酒運転をしますし、談合といえば、下級職員ではない、県知事さんが先立ってやっているみたい。
 学校ではいじめにあった子が「キモイと言われた」などと遺書を何通も残して自殺。
 これには、いじめたと指さされて残された同級の友人たちは大変です。彼らの心に残る「僕がからかったあいつが僕を呪って死んでしまった」と痛恨するトラウマを、誰が癒すことが出来るか。こういうことを考えると問題は容易ではない。
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 さて、こうした世代を生み出した世代は、大人の私たちです。団塊の仲間たちも無罪では無い。責任は、この私たちにあるという認識が、前述の石原さんからして、全然無いのです。
 ここで私は、福音書の中の祭司やパリサイ人たちを思い出します。彼らは当時の「取税人、罪人」と言われる人たちに向かって言う。
「律法をわきまえないこの群衆は、呪われている」(ヨハネ7:49参照)と。
 「取税人、罪人」と言われている連中は、現代の日本なら、「ワイロを取って談合を世話する公僕たち、覚醒剤を売るは、打つは、援助交際、ニートの連中」と言いましょうか。
 こういう人たちを、祭司やパリサイ人たちのように呆れ果てた顔で、批判、非難、罵るのは簡単です。しかし、イエス様は言われます。
「すべて重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい。私は義人を招こうとして来たのではなく、罪人を招こうとして来たのです」と。
 祭司やパリサイ人たちはイエス様の弟子たちにこう言います。
「なぜイエスは取税人や罪人などと食事を共にするのか」(マタイ9:11等参照)と。
 イエス様は取税人や罪人たちと喜んで宴会を楽しんだようです。このイエス様を彼らは非難しました。
 この祭司やパリサイ人たちに、石原さんをはじめ、多くの私たちは、なんと似ていることでしょうか。
 私たちが、世の偽装建築技師、振り込み詐欺、談合屋、親殺し、子殺し、ニート、こうした人々を、高所から見下ろして、軽蔑、罵り、罵倒し、見限ったりするならば、前述の祭司、パリサイ人と同族です。
 イエス様の態度はまるで反対です。イエス様はこの取税人や罪人たちのために地上に来られたのだとおっしゃいます。
 イエス様が宣教開始に先だってバプテスマの「悔い改め」の洗礼を受けられました。罪もなきイエス様がヨハネのバプテスマを受けられるのは、ヨハネにも不可解でした。
 しかし、イエス様はこれを当然の正しいことと言われました(マタイ3:15参照)。「私もみんなと一緒に悔い改めるよ」と言われるのです。
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 私たちは祈るべきです。罪もなきイエス様がヨハネの悔い改めのバプテスマを受けられたように、私たちも真の悔い改めの祈りを祈るべきです。
 「悔い改めの祈り」は、「執り成しの祈り」の頂点というか、最深部です。
 そうです、「執り成しの祈り」どころではない。「悔い改めの祈り」です。最低の深部に飛び降りて、「悔い改め」、祈るのです。
 しかし、せめて「執り成しの祈り」も励みたいのです。私どもの知っている友人たち、家族、信徒さんがたをも含めて人々のため、執り成して祈ることはかなり簡単です。
 そして又、日本国中の大衆を想って祈ることも大きすぎはしますが、出来ます。励みましょう。必ず、出来ます。祈りましょう。
 実は、こうして、冒頭に書いた日曜日の朝のように、私は2時間ほど祈ったのです。
 その時、不思議なほどの平安、日本人すべての対する無私な愛、そういう心が湧いて来たのを私は感じたのでした。そして遂には、「敵をも愛せよ」というイエス様の最高の教えさえも決して不可能ではないということ、又これこそ人間の可能な完全への道であること等、そういうことを悟ることができたのでしたが。
 これが、第一頁に書いたように「無私、かつ愛の心」を持つことのできる秘訣、と題した所以でありました。まことに、感謝でした! 《く》

〔あとがき〕
本文の主題は「執り成しの祈り」でした。この主題に関してA姉から絶好の参考書を紹介されました。それは、「『祈りの時』を変える黙想」(オズワルド・チェンバーズ著、棚瀬多喜雄訳、いのちのことば社発行、定価1700円税抜き)という本ですが、残念ながら目下発行所でも品切れのようです。ぜひ再版を発行所にお願いしたいものです。ともあれ、皆さんには、しばらく要所、要所をコピーして読んで頂くつもりです。▼11月12日に、「在天者祈念礼拝」を持ちます。引き続き、午後に別府霊園の教会墓地に行きまして「墓前礼拝」を営みます。キリスト教界には、召天後の召された方々に対する慰霊の行事というものが無いので、仏教のしきたりに慣れた未信者の家族の方々には寂しい思いをお与えすることがあります。その辺のことも覚えて、毎年いたしている行事の一端です。ご了承ください。また幼児の皆さんのために、七五三に対応して幼児祝福式を11月5日に致します。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-10-24 19:04 | 日岡だより
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