No.249 悪魔に向かって笑え 2006.10.8

悪魔に向かって笑え
 
リバイバル新聞の2002年の頃、私の拙文「ワッハッハハ元気が出るコラム」が連載されたことがある。その36回目に書いたのが以下である。

 先日、拡大宣教学院の卒業式に出ましたが、主賓講師のウインストン・イー先生(アジアアウトリーチ総裁)の記念メッセージに感銘しました。特に「悪魔に追い掛けられるな。悪魔を追い掛けよ」、というフレーズには全く共感でした。
 この卒業式を終わって、私は東北宮城県から新幹線で東京都下に出ます。すぐ大分に帰らないで、今回はH市に行きました。そこに背骨を痛めて、坐れない、立てない、排便ができないという、難病の女性に会いました。私の「テレホン聖書」を聞いておられ、幾度も癒しを体験されたという方ですが、彼女にもっと神様の完全な癒しを体験して頂きたいと思い、面会を約束してあったのです。
 この日は、特に急に病状が悪化したらしくホテルで会えたときは、姉妹はソファに横になったまま寝ておられた。そばには温和で篤実な感じのご主人と、中2のご子息が付き添っておられた。そのご子息に学校での授業の受けかたや、自宅勉強の愉快なコツなどを教えながら(この主題は私の得意である)、しばし歓談しました。
 最後にゆっくり、姉妹のために祈りました。主を仰ぎ、信じて祈りました。イノチがビリビリ注がれてゆく。私はふとウインストン先生が「悪魔に追い掛けられるな。悪魔を追い掛けよ」と言われた言葉を思い出しました。さっそく真似する。
 私は姉妹に語る。「姉妹よ、私たちを怯えさせ不安を与え、病気をもたらすのはサタンです。姉妹よ、サタンに脅されてはなりません。逆に悪霊を怯えさせましょう。かつて悪霊自身から私は聞いたことがあります。悪霊は『イエス様のお名前が一番怖い』と言いました。『ほかに怖いものはないが、イエス・キリストの血と名が怖い』って。そこで、
 私は目を怒らせ、憤怒の顔を見せて悪霊をにらみつけて、「イエス様の御血潮とお名前によって命じる。この人に病気と痛みと無力感をもたらす憎むべき者よ、出て行けっ」と叫びました。ただちに、その方から痛みが出て行きました。悪霊は私の声と表情に震え上がったのです。私は逃げる悪霊を追い掛けました。私は彼の背に向かってあざけりの笑いを送りました。「ワッハッハッハハ!」と。
 姉妹は坐れなかった体を起こして坐り直し、そして立ち上がり、歩いてホテルを出ました。手をふりながら、ホテルの玄関を出て行った姉妹とご主人とお子さんを私は主を賛美しつつ見送ったことです。
 もう一度、私は「ワッハッハッハハ!」と高笑いしました。(以上)
           *
 私は、その頃たいへん忙しかったので、H駅前のホテルに泊まり、ご夫妻にホテルに来てもらって、祈ってさしあげたのでした。そして翌朝、一番に東京に出て、飛行機で大分に帰ったものです。
 帰ると、前記の姉妹からメールが入っていました。
「先生に祈って頂いてから、すぐ町に行きました。町に出るのは九か月ぶりでした。バスに乗って、町に行き、用事をすませました。ハレルヤ! 私は嬉しくて泣きました」。私も「ハレルヤ」と主を賛美したのでした。
 ところが、3月ほどした頃だったでしょうか、彼女からメールがはいりました。その頃の急の暑さです。体がきつくなり、以前と同じような症状が再発したというのです。でも、彼女は気丈でした。文面に、こう結んでありました。「時々、不安は襲ってきますが、『ワッハッハハ、サタンよ、お前にはなんの力もない、二度と来るな』、と命じています。どうか、お祈りください。ワッハッハハ!」。
 私は彼女を励ましました。彼女が気丈に信仰を維持しているので感謝でしたが、しかし悪魔も巧妙に働きますから、私も少々心配していました。
 一度、神様の癒しを受けて、その後、再びその症状が見え出すのは、よくあることです。そういう時、癒された信仰を維持して大胆に悪魔に立ち向かうことは、本当に大切です。またその人の信仰が自立するためにも必要なことです。特に又、この姉妹の場合のように癒しの祈りをしてくれた伝道者が、その後は遠くの土地に離れているという場合など、尚更です。そんな時、
 かつての症状がふたたび見え出して、不安を感じた場合の上記の姉妹の雄々しさを称賛したいと思います。悪霊は人をだます霊(ヨハネ8:44下)です。又、あざける霊(第二ペテロ3:3)です。「主はひがんだ者にはひがんだ者になられる」(詩篇18:26)という不思議な言葉がありますが、神様は悪には悪を打ち返すところがあります。私はこの「打ち返し」の原則の真似(!)を、悪霊に対して使うべきだと思うのです。つまり、悪霊をあざ笑うのです。「神様は、神様に逆らう世の王たちをあざけり、笑われる」と詩篇第二篇にある通り。
 私たちの内心にどんな不安があろうとも、また元々弱気な性質であったとしても、そんなことを気にしないで、怒りの表情、いかつい声、全身をふるわせて「憎っくき悪霊よ、私より離れ去れ」と命じるのです。そして「ワッハッハハ」とあざ笑いましょう。こう彼女にメール返信したことです。
 「ワッハッハハ、元気にやりましょう! 悪魔を追いかけて、『ワッハッハハ』と笑おうじゃありませんか」。
          *
 この際、大事なことがあります。前述した「内心にどんな不安があろうとも、そんなことを気にしない」という一つの理由は、私たち人間の心の中を悪魔は見通せないのだということです。悪魔は私たちの表情、しぐさ、言葉を見て、私たちの心の中を察することは名人です。しかし、私たちの心の中を見通せません。
 私はこのことは随分以前から言ってきましたが、最近、アナコンディアも同じ事を言っているのを知りました。ですから、私たちの内心がどんなに怯え、震えていても、そういうことは微塵も見せず、おっかない顔をして悪魔をにらみつけるのです。
 悪魔は人間をだます名人です(それが又、彼らの誘惑の手口です)。ですから、私たちも打ち返しの原則で悪魔をだますのです。私たちは、頑張って気丈な顔をして「お前には負けないぞ」と悪魔をだますのは善いことだと心得ておきましょう。
 更にもう一つ大事なことは悪魔(サタン)も悪霊も確かに実在する存在者だということです。私は25歳でした、たしか昭和22年、伝道のさなかで悪霊に出会いました。その頃の日本の教会で「悪魔や悪霊の実在」を認める人は殆どいませんでした。
 「悪霊につかれた男なんて、あれは現代では精神病者のことだよ」と言ったりしていました。しかし、私は目の前に悪霊につかれた人を見ると、聖書の言葉を信ぜざるを得ませんでした、そして思わず叫んだものです。「悪霊よ、出て行け」って。その悪霊はねばって半年ほどしてやっと出て行きましたが。
 新約聖書には悪魔(サタン)という名前が70回以上、悪霊という言葉も70回ほど出ています。案外、旧約聖書には出ていないのです。イエス様が地上にお出でになった時、悪魔も子分の悪霊どもも怯えつつ、イエス様におびき出されて姿を現わした感も無きにしもあらずです。《く》
〔あとがき〕
本日(10月8日)は私の宣教開始記念聖会として、主日礼拝を守らせていただきますし、関連して、今夜も信徒諸君の一泊セミナーであります。私は1949年10月9日(日)に鶴崎市西町の林正貴兄宅にて第一回の集会を開いたのでした。最初の日は、集う者は私と林兄だけ、近くの鶴崎小学校の運動会の音が聞こえました。たった2人の礼拝でしたが、私は嬉しくてなりませんでした、い。以後、57年、主の御手によって、多少のつまずきもありましたが、今日まで導かれて来ました。感慨無量、ただ感謝あるのみです。▼「悪霊追い出し(霊の戦い)」に関連して、90年代より、マルコーシュ・パブリケーションから良い本が沢山出ています。特に奥山実先生の「悪霊を追い出せ」などは面白くてタメになります。アナコンディアの本は同社発行の「霊の戦いと大収穫」です。お奨めします。▼なお、10月6日夜のコンパルホールでの石井筆子女史の生涯を描いた「無名の人」を見てきました。実に地味な作品で驚きました。長い間、世から忘れられて来られたこの方に似つかわしい作品と言えましょうか。男女平等や、障害者教育への熱意は現代にも尚訴えるところ多大、その先見性に驚嘆します。ただし、残念なのは、石井筆子女史が「敬虔なクリスチャン」だったとは語ってくれますが、どのような求道の結果、クリスチャンになられたのか、またそれ以後の信仰の経過、この方の内面性に可笑しいほど触れてくれなかったことです。関連して、教育だけで人が造られるように語るのも少々疑問でした。《く》

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by hioka-wahaha | 2006-10-10 11:22 | 日岡だより
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