No.246 人生の評価 2006.9.17

人生の評価

 人間を評価するのに、現在何かをしでかした、大仕事をやったというようなことは小さい問題です。自分が願うことをまだ十分に成し遂げないまま、とうとう終わってしまう人生があります。しかし、神様はそういう人生の歩みも全て、次の世界においてお用いになる予定のはずです。ですから、現在の、この世だけの成功とか失敗だけを見て、人を評価してはいけないし、自分をさげすんでもなりません。人間の評価と神の評価は違うということです。
 自分の中にある大きな理想、夢、願望、それらが大きければ大きいほど言葉では説明できないし、世の人々には分かりません。人々が無視したところの全て、成し得なかったところの全て、これこそが神の前における価値である。
  (「生命の光」2006年9月645号より抜粋)
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 これはR・ブラウニングの詩に寄せた手島先生の解説的短文です。僭越ながら些少、私の手を加えましたが。
 私はこの手島先生の文章に異常なほどの感銘を覚えました。斯くの如き文章を書かしめたブラウニングは別として、世界にこんなことを言った人は、過去にも、現在にも一人もいないのではないか、と私は思うのです。
 しばらくして私は気づきました。臆面もなく言えば、私の「絶対非戦主義」や「日本列島を世界のカントリーに」等の論もほぼ、ここに手島先生がおっしゃる「世の人々に分かって貰えない理想だったんだな」と、思ったことです。しかし、
 ずいぶん以前のことですが、キリスト新聞に「降伏論」という社説(?)が出たことがあるのです。私の「絶対非戦主義」に比して「降伏論」というのは正に現実的であると思うのです。他国が攻め込んで来た時に処する最も平和的で効果的な対処法ですよ。
 現に日本は太平洋戦争にはっきり降伏宣言してけりをつけ、今のように繁栄して世界中からうらやましがられているではありあませんか。これこそ「降伏」のてきめんな効果です。
 多分これは、正に人々に分かって貰えない所論でしょう。しかし、戦争は降伏してでも上手に早めに終わらせることです。
 国土があり、優れた国主が居られ、教育に富む勤勉な忠実な国民が残っていさえすれば、国は立派にあとに残ります。《く》


「イエス様って凄い」

 この9月9日に有働憲二兄は天に召されました。一月ほど前、210号線沿いのW病院に見舞ったばかりでした。見舞いと言うよりも、熱も高いというので、そのお癒しの祈りのために行ったのです。そして、あとでその熱が下がったというご報告を聞いて喜んでいたのです。
 ところで、9月9日の未明、憲二兄が危篤であるということを聞いて、直ちにA病院に行きICU室のベッドに居る彼のために祈った事です。その時、相良姉が側で憲二兄の眼がパッと開いたのを見たそうです。一同それこそ、愁眉の眼を開いたものです。
 しかし、残念でした。その日の午前9時45分、憲二兄は主のもとに帰られたのです。覚悟していたこととは言え、奥さんの喜久代さん、2人のご子息、武士君、智義君の落胆と悲しみは察するに余りあります。
 長い病床でした。15年ほど前のこと、脳梗塞でした。その倒れられて後、約3ケ月ほどして、病床でバプテスマを受けられたのです。当時の教会週報に私はこんな記事を書いています。
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 有働憲二兄は脳外科の病棟に入って約3ケ月、相良姉や原兄がしばしば通って熱心に祈ってくれた。また有働兄弟は私の訪問を喜んでくれた。
 さて、その日は、脳を開いて血管を切ってつなぐというような厄介な手術の前日だったが、私はベッドのそばに行った。彼が、
 「先生、奇蹟を待っています。奇蹟を」
 と言って私を驚かせた。「奇跡がおこるのが当然だし、それが無ければ私はたまりません」という表情であった。その頃、たしかに本田兄弟の手の負傷が不思議にいやされるなど、そうした現象が続出している頃であった。
 手術を終わって何日目だったか、私が集中治療室に行ってみると有働兄が居ない。聞いてみると、もう6人部屋に戻ったという。私はあわてて6人部屋に駆けつけた。介護の奥さんが言う。
「先生、順調なんですよ。少なくとも7日間ははいっているはずの集中治療室を4日目で、出してくれました」
 ベッドの本人の顔をのぞくと、その時。あの名文句が出たのです。
 「先生、イエス様って凄い」
 と言う。私はびっくりしたが、彼はすでにはっきりイエス様の癒しの力を感じているらしい。私は病院を出ながらつぶやいた。「イエス様って凄い」と。
 1週間ほどして、私は彼を訪ねて言った。
「どうも、有働さん、あなたはもうイエス様を信じているようですね」
 これはまた、牧師としてなんという手遅れな質問であろう。さて、彼は「はい」とうなずいた。私はもう一つ、念をおした。
「有働さんの心の中には、もうイエス様が居られるのですね」
 彼は大きくうなずいた。あの厳しかった病状、また困難な手術を前にした時、彼は心の底からイエス様に助けを呼び求めたことであろう。そして、自らイエス・キリストを見出したのであろう。それに違いない。
 私は感動した。そして、「では、明日洗礼式をしましょう。水に浸るのは無理ですから、水を頭につけるだけの式にしましょう」、そう言って病院を辞し、そして翌日の病床洗礼となったのである。
 以上が当時の週報の記事抜粋である。それは1993年の年の瀬も近い、12月23日のことであった。今、思い出しても感激する。
 とは言え、それ以後の長い紆余曲折。転院を繰り返し、リハビリや、また自宅療養。そばに付き添う奥様も大変であったろう。奥様にとって大きな試練です。しかし、その試練は奥様を信仰に導く。ヨセフやヨブに似ている。そして奥様もバプテスマを受けられた。
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 実は、有働兄が召されて翌日に前夜祭、その翌日の9月11日、午前11時から当教会で葬儀を行った。ご遺族と70名ほどの多数の会葬者を前にして、私は葬儀説教の席に立った。私は会葬席前列の喜久代奥様のお顔を見た。突然、私の胸は詰まった。
 私的なことになるが、私の父も15年ほどの長い療養生活を送った。しばしば危篤状態に陥り兄弟親族者が集まったものだ。私の母は、ずっとその長い間、看護に努めた。吸入器や注射器を握った母の姿を私は心に刻み込むように覚えている。あの母の苦労の姿が、喜久代奥様のご苦労と重なりあって、私の肺腑をついた。私の内側にわっと涙が湧いた。私は奥様に詫びた。
 私は奥様のご苦労を些かも察せず、うかうかと過ごしてきた。有働兄弟の病床をも1ケ月前の訪問を除いて、長い間お訪ねもしていなかった。申し訳無かったと、私は悔いた。そして、有働兄弟自身、どんなにか侘しい人生の後半生を送ったことであろうか。残念であり悔しかったであろう。思い残すことも多かったであろう。
 その時、私は本紙の第一頁に書いた手島先生の文章を思い出したのです。私は亡骸の有働兄弟に、いや天上の有働兄弟に語りかけた。まず、手島先生の「人生の評価」を読んだあとで、
 「有働兄弟、人生はこの世だけではない。心に願い、理想を抱き、夢を描いたことの幾分の一も達成できなかったとしても、悔いる事はありません。神様の御許に行って神様の御恵みのもとに、偉大な夢を更に、更に拡大し、完成する時がくるのですよ。
 スイスの碩学、カール・ヒルティは『天国は豊かな学び、果敢な活動のあるところ』と言いましたよ。期待して昇って行ってください。英雄が故国に凱旋するように、あなたも確信をもって天国に凱旋してください。本日の葬儀の式を有働憲二兄弟の凱旋式といたしましょう」、こう言って葬儀を終えたことであります。《く》

〔あとがき〕
前述のご葬儀では、私のお勧めにより供花にはお供え下さった方々のお名前を上に掲げる事はご遠慮願い、また弔電の紹介もしませんでした。お届け下さった方々には失礼でしたが、お許し下さい。▼教会の信徒諸兄姉には、葬儀の前後、その間、行き届いた愛のご奉仕を頂き、ご遺族ともども感謝いたします。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-09-18 13:30 | 日岡だより
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