No.241 「ワッハッハ」のおすすめ 2006.8.13

「ワッハッハ」のおすすめ

 人はだれでも罪ととがを犯しています。しかしイエス様を信じた者は、だれでも赦され、救われています。
 ですから、もうその人は過去の罪や悪いことを、思い出して苦にする必要はないのです。
 いいえ、苦にしてはいけないのです。それは不信仰です。
 ただ今日一日を感謝し、喜んで生きましょう。明日を期待して生きましょう。未来にロマンを期待しましょう。
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 それでも、長い習慣から、私たちはとかく罪を犯し、悪いことをしたり、考えたり、言葉にしたりします。
 そして、悲しんだり、淋しがったり、腹をたてたりします。
 それは悪魔のさしがね、悪魔の誘惑です。悪魔はすべての悪しきことの根源です。
 そんな時、心を神様に向けましょう。それが悔い改めということです。
 そして「ワッハッハ」と笑いましょう。
 悪魔はクリスチャンのワッハッハの笑い声の前に立って居れないのです。はだしで逃げ出してゆきます。
 聖書に「主にあって喜びをなせ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる」とあります。
 何よりも、神様はあなたの罪を赦し、心に平安と喜びを与えてくれます。そして生きる勇気と知恵を与えてくれます。
 さあ、「ワッハッハ」と笑いましょう。悪魔が吹っ飛んで行きます。淋しい、不満な、悲しい、悪い心が吹っ飛びます。《く》 (1998.10.27旧稿)


聖書の信仰

  これはある方へのご返事です。
 「私は仏教だが、同じ神様なのに、それでもキリスト教だけが神様というのは、おかしいとは思わない?」、こういう友人の問いかけに答えが出来ないで困っていますと、ありましたね。
 「仏教もキリスト教も同じ神様だ」というのは、間違いです。キリスト教の神様は万物の創造者、唯一の神です。仏教の仏様は自然と一体の方です。それ自体、尊い高度な存在者ですが、創造神に造られたものの一部です。ちなみに日本の神様は既に造られた被創造物である自然の中から生まれ出たものです。
 どの神様でも同じ神様だ。だから何を信じてもよい。一応、蛇やキツネさんでなければ、何を信じても同じさ、こういう無責任な信仰論にだまされてはいけません。
 信仰とは一生、否、未来、永遠をかけて、全心全霊を託すことです。すくなくともキリスト教はそうです。
 他宗教を非難、否定、軽蔑せず、尊敬するのは、私の信仰態度です。生長の家の谷口先生の言葉などをよく引用して説教するのはそのせいです。禅宗の言葉も好きですから、教会ではよく引用します。勝れた師家の言葉の含蓄深さに私は共感するものがあるからです。
 だからと言って、神仏みな一緒などと言ってゴチャゴチャにはしないのです。人間の徹底的罪悪心の赦しを経験させてくれるのはイエス・キリスト様だけです。他の宗教は、みな罪や悪は無いことにするか、見ないことにするか、自然に無くなるよ、などと責任逃れします。
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 私はある冊子の冒頭で、こんな風に書き始めています。ほんの一部ですが、引用します。
 世には自己催眠的な「信仰」というものがあります。日本人は昔からそれを知っているようです。「いわしの頭も信心から」などと言うのがそれです。こうして世間一般からホンモノではない「信仰」なるものが見抜かれ揶揄されているのです。
 精神統一や、空中浮揚をしたと言って霊能力を誇示するオウム真理教のごとき宗教の危険さを世人は初めて知りました。「何を拝んでもよい。信仰しさえすればよいのだ」などと言うのは、ずいぶん無責任な言葉なのです。
 ご利益を追及するばかりの宗教があります。石の地蔵さんや蛇を祭って祖先の呪いを払うなどという原始宗教、あるいは衒学的高度な言辞を弄し、あるいは地球がすぐにも滅びるなどと高圧的に恐怖心をあおって信仰を押しつける宗教、このように低次元の宗教は様々です。
 しかし、質のよい宗教もあります。たとえば道徳的に高い目標を掲げます。自制して高品位の人生を歩めと言います。経典や創始者の言葉は感動的です。しかし、その教えに従おうとすると如何に努力しても理想どおりに行きません。人間の心はきたないものです。人の前に自分を偽り、義人らしく生きる事は出来ます。しかし、心の深いところで平安がありません。すき間風がはいるように心の中を冷たい自己否認か自己懐疑の風が吹き抜けます。
 私は戦前にダイヤモンド社の本だったか、ナポレオン・ヒルの成功哲学の本を読んでたいへん感銘を受けたことがあります。あの頃はまだそういった本はまったく無かったのです。こうした傾向の本は戦後も人気があり、今日も盛んです。潜在意識を用いて「考え方を変えよ」というタイプです。「信念の魔術」「積極的考え方の力」「眠りながら成功する」「セルフイメージを変える」「目標設定」「意識は現実を変える」等々です。
 軽快な宗教があります。それは社会、人生を上手に渡って行ける方法、そのコツを教えてくれます。家庭や近所付き合い、会社等での人間関係に成功する方法、自分自身の心がけを変えるテクニック、その実践マニュアル。これはけっして悪くはありません。案外古い新興宗教でも、たとえば生長の家、PL教団や倫理研究などに見受けられます。
 このタイプの指導手法は注意して用いれば教会でも有効です。夫のパチンコ癖が直るようにとか、登校拒否の中学生が学校へ喜んで行けるようにとか、家庭学習の下手な高校生に時間管理の仕方を教えたら、早速その日から勉強が楽しくなり、そして志望校に合格しましたとか、跳ねっ返りの娘さんがすっかり落ち着いたお嬢さんになって、良縁に結ばれたとか、こういう実例はたくさんあります。日々の生活の心構えの転換です。しかしこれは宗教とは言えません。「生き方の講習会」に過ぎません。
 それらは生活に関する一種の「救い」かは知れませんが、本当の人生苦の深渕からは救い出してくれません。「人間はどこから来て、どこへ行くのか」、そういう人生最深の悩みを救ってくれません。
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 私の青年時代、私の親友が厭世自殺をしました。それは彼の哲学から来る結論でした。古代ペルシャの詩人ルバイヤットが、「人の最大の幸福は生まれなかったことである。次に幸福なことは一刻もはやく死ぬことである」と歌っているような哲学、私も共感しました。そして私も深刻に悩み始めました。
 「人間が40年、50年苦労して生きている価値がどこにあるのか」、どう考えても私には「40年、50年苦労して生きている価値は人生のどこにも無い」ように思えました。私はその親友の死に釣りこまれて私も死んで行きそうな感じがして、恐れ、また苦しみました。
 そうした中で、問題は自分自身のエゴイズムにある、それが罪だと分かって来ました。どんなに人にたいして真実と愛をもって接しようとしても、所詮は私はエゴイスト、人を信じきれず、最後まで愛し通せない。却って人をだまし裏切りさえする。そうした自分の醜い不真実さは、まさしく親鸞のいうように私の心も「蛇蠍のごとく」、「地獄ぞ一定棲みかぞかし」です。
 人間がまじめになればなるほど、善い人間になれるかというと、さにあらず、人間は心底徹底して真面目になればなるほど、自分の罪や醜さ、卑しさ、弱さに苦しむのです。
 そうした人間の内面的良心の苦悩の結末は永遠の死です。この結論から人は逃げることはできません。もちろん自分をごまかして、そういう問題を考えない事にする事は出来ます。
 多くの人が「死」を考えない事にしているように……。「人間は死と太陽はまともに見つめることが出来ません」。同様に人は自分の罪をまともに見ることはむつかしい、絶対的不安が見え隠れして、ついてくるのです。
 アウグスチヌスは言いました、「人は神に造られたので、神に帰るまでは平安を得ない」人の魂は根本から罪に歪んでいるとは言え、創造者なる神の霊性は人の内奥に隠れています。人はこの内なる罪と神的霊性の2つの間の相剋に悩むのです。不安を生じます。そして強力な罪の力により神の霊性の影響下にある折角の良心は、その働きを封じられているのです。「ああ、われ悩める者なるかな」(ローマ7:24)とパウロの言うとおりです。
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 聖書は、人間の力でいくらあせって、がんばって罪と悪の勢力と戦っても、到底勝てないと、告げます。しかし、ここに私たちのために身代わりとなって罪と死に勝利し、罪の代価を死をもって支払ってくださった方がある。この方に信頼するなら、この方は既に永遠の生命への道を私たちのために備えて下さっている。この方に信頼するなら、私たちは永遠に生きることができます。
 イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。釈尊といえども「私は生命である」とまでは言えません、「私は法ではない、法を悟ったものである」と言ったのです。しかしイエス様は「私は法(真理)である」と言われたのです。
 イエス様を信じるとは、イエス様のお言葉を実行して善い人、清い人になるということではありません。イエス様を私の心に迎え入れ、私の心の中でイエス様に生きて頂き、もはや私が自分を生きることをやめる、これがキリスト信仰です。
 どうぞ、今、次の言葉をイエス様に語りかけてください。
「イエス様、私は罪人です。生来罪の性質を持っており、今も罪を犯しつづけています。このままではたまりません。どうぞ、私の内に入ってきてください。私を赦し、私の中にお住まいください。そして、私を支配して下さい。」
 そうすると、イエス様はあなたの魂の中に入ってきてくださり、いつまでもお住みになってくれます。
 もっとも、晴れた朝、東の地平線から朝日が昇って一挙に朝を迎えるように急激な回心を迎える人と、曇り日の朝、いつ朝が明けたのか分からないけれど次第に夜が明けて来るように、信仰の芽生えがゆっくり来る人もあるようです。それぞれ神様のお選びでしょうが、この後者の人たちのためには、特に母の役目をする教会の存在と任務が重要です。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-08-14 20:27 | 日岡だより
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