No.238 スポーツマン・シップを持とう 2006.7.23

スポーツマン・シップを持とう

 どうもはっきりしないのだが、野球の王監督の二女、王理恵さんという人が「毎日スポーツ人賞」というのを受けたらしい。
 それはともかく、その記念なのか、彼女が少々長いエッセイを毎日新聞に書いていたのだが、それを読んで大いに感じることがあった。
 まず父親の王監督のことだ。今年、初開催されたアメリカでのワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、「父がイチロー選手とシャンパンをかけ合う姿を見て、ああ、ああいう男の子とキャッチ・ボールをするのが父の夢だったのかなあ」と思い、自分たちが娘3人姉妹だけだったので、申し訳ない気持ちになった、ということを書いてあった。
 私はこれを読んで、胸が痛くなった。と、言うのも私は子どもの時から運動が全く駄目で、野球やこま遊びや、たこ揚げなど一切したことがなかった。だから、ひとり息子のえりやとキャッチボールなど、したことがない。えりやに申し訳なかったと思う。
 私は気がついた。それは父親が幼い男の子と心を通わせようとすれば、キャッチボールが一番良いのではなかろうかということである。母親と女の子とは何が良いか。私は知らない。誰か教えて下さい。
 さて、「だから」と、この理恵さんは提言しているが、これからの教育現場では、中学、高校までは運動に打ち込む時間を必ず作って欲しいというのです。人格形成にはスポーツは非常に大事な要素だと思う。父・王貞治の努力心や礼儀正しさなどは野球によって培われたのだと思う、と言っています。
 稽古事やスポーツなど、昔から「格に入って格を出よ」と言う。何はともかく、まず体を使って形だけでも覚え込め、それからだ。ものにはなるのは、と言うことである。
 そして、そこからホンモノを掴んで出てくる時、一流の人になれると、言うのです。
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 さて、ここで一言。教会では普段、「救いは行いによらず、ただ信仰による」と教えていますね。すると、この「体から入れ」ということ、これはどうしてですか、と言われそうな気もしますね。
 しかし狡いようですが、この問題は少し休ませてもらって、娘の理恵子さんが語る、王監督の取って置きの話しを、以下に載せます。
 王さんが、初めて野球を体験した時、「自分はただ者ではない」と感じたそうです。
 そこで理恵さん、「なるほど一流を極める人は、最初のかかわりの事点で、何かガーンと来るものがあるようだ。この父の打ち明け話しを聞いて、私はプロの世界をあきらめた」、などと書いている。
 この理恵さんの気持ちも分かりますが、しかし、私はこの王監督の言うことに大いに共感したのです。 こういうことです。私は、この王さんの「最初の感じ」、これを「気づき」と言ってもよいと思う。最近、私が推奨する茂木健一郎さんの名文句で言えば、「ひらめき」です。信仰の世界で言えば、「回心」である。
 普通、「回心」とは、入信時のただ一回限りの聖霊経験を差すのですけれども、その後の信仰生活において何度か、もたらされる神様からの働きかけ、聖霊体験。たとえば、聖書を読んでいる時や、礼拝の時に起こったりする、身震いするような共感、感激。どんなに小さな体験であっても、それを私は大きく評価して、それをも「回心」と呼びたいのです。
 こうした内面体験は、私たちの「自己発見」を生みます。王さんのように「自分はただ者ではない」ほどではないにしても、「私は主に愛されている」「私は神の子である」等々、これらの自覚が神様から呼び覚まされた体験を持っている方はクリスチャンの中に多いのではありませんか。
 ペテロは初めシモンという名でした。シモンというのも「神聞きたもう」という良い名前ですけれども、しかし、イエス様がシモンに初めて会った時、彼に「目をとめて言われた」とあります。
 「あなたはヨハネの子シモン君だが、私は君をケパ(岩)と呼ぶことにする」とおっしゃるのです。ケパとはギリシャ語でペテロですが、こうしてペテロは自分の本来のあるべき自分を発見するのです。
 旧約聖書で、エレミヤが神様から召命を受ける時もそうです。神様は彼に言われました。「あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」と。
 エレミヤはビックリ仰天しましたが、神様の選びは変わりません。この神様のお声を聞いた時、あらためてエレミヤは真の自分を発見するのです。
 私の言いたいことは、私たちは王さんが「自分はただ者ではない」と感じたと言うことぐらいに驚かないでくれ、ということです。
 私たちこそ、もっと偉大な自己に目覚め、「自分はただ者ではない」と認識すべきではないか。「自分はただ者ではない」ことに感動すべきではないか。
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 今回の王理恵さんのエッセイで感じ入ったもう一つのことは、理恵さんがゴルフの練習を始めた時、王さんがコーチとして荒川博さんを紹介してくれたのです。荒川さんとは、それ、王さんの選手時代、一本打法を指導してくれた人です。
 この荒川さん、とにかく教えるのに熱心な人だそうです。乗ってくると、真夜中でも指導は止まることはないそうです。その荒川さんが言っていたそうです。「王貞治の一番いいところは素直さだ」。
 熱心なよい指導者に素直な弟子。教会も斯くありたいと思います。私は、この荒川さんのような熱心な牧師であったか。私は恥じ入りたい気持ちで一杯になりました。
 ここで、私の強調したいことは、体ごとのデボーションです。先に書きましたが、「救いは行いによらず信仰による」、これはパウロが教える信仰の神髄ですが、この「行い」というのは、旧約の律法のことです。勿論、新約の教会においても信仰を律法的に指導する先生も無きにしもあらずですが、それはここでは問いません。
 人間は肉体を持ち、行動的に出来ています。一切のことに行動が伴わないということはありません。祈る時も、聖書を読む時も、教会に出席する時も、伝道のためにハガキ一枚書く時も、電話する時も、家庭訪問する時も、集会に誘う時も、共に祈る時も、いっさいのことに肉体の行動が伴います。
 仏教のお釈迦さんは午前中は座禅をしていた。それを「お坊さんは何もせず、座禅するだけで、わしらに托鉢にくる、いいなあ。わしらは畑を耕してやっと食っている」と冷やかされても、お釈迦さん動じない。「我モ又耕耘スナリ(私も耕しているんだよ)」と言ったと仏典にあります。本気で座禅すれば「座禅も重労働だ」というお釈迦さんの言い分です。 それはともかく、パウロは言います。「自分のからだを打ちたたいて服従させる」(第一コリント9:27)。これは具体的には不明ですが、あるいはカトリックの苦行らしきことかも知れません。
 しかし、ともあれ、彼の祈りも、聖書の学びも、宣教も、牧会も、肉体的痛みを大いに身に感じるようなことであっただろうと私は想像します。
 ともあれ、肉体抜きでは、祈りも瞑想も出来ないはずです。まして、クリスチャンは日常生活のすべてにおいて、スポーツマンのような身構えも心構えも必要なのだということが分かってきました。
 理恵さんではないが、クリスチャンにこそ、真のスポーツマン・シップが必要である。そのことを教えられて、感謝したことでありました。《く》

〔あとがき〕
今回のベニー・ヒン先生の聖会には、第3日目に1日しか行けなかったことは残念でしたが、大分からは甲斐兄姉夫妻も参加してくれ嬉しかったです。連日参加したかったのですが、たった1日だけでも、充分に恵まれて、大いに感謝しました。▼いつものように癒しの奇蹟は大型で、見事でありました。来週に持たれる、この教会の「癒しの集会」も斯くありたいと願っています。皆さんも祈ってください。講師・永藤先生のためにも……。病める人々を、たとえ未信者の方々であろうと多数お連れしてきて下さい。▼今回のベニー・ヒン聖会では国歌「君が代」の斉唱をベニー・ヒン先生自身が会衆に求められ、びっくりしました。「この日本国歌の歌詞に問題があることは知っています。しかし、クリスチャンはイエス様を愛すると同様に、母国を愛することも求められています」、という先生の意向でした。正に「2つのJ!」今回の大会の圧巻でした。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-07-26 00:50 | 日岡だより
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