No.237 「私に何をしてほしいのか」~イエス様のお言葉~ 2006.7.16

「私に何をしてほしいのか」~イエス様のお言葉~

 バルテマイという盲人の乞食が、イエス様一行を追いかけながら叫びました。
 「ダビデの子よ、私をあわれんでください」。
 人々は彼を叱って黙らせようとしましたが、彼はますます激しく叫びつづけました。
 「ダビデの子よ、私をあわれんでください」。
 イエス様は立ちどまって彼を呼びました。彼は上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエス様のもとに来ました。イエス様は彼に問いました。
 「私に何をしてほしいのか」(マルコ10:51)。
 盲人の彼が必死の形相でイエス様を追いかけて来るのです、彼が何を求めているのか分かりきっています。まして人の心を見抜きたもうイエス様ではありませんか、今さら聞かなくてもお分かりになる筈です。しかし、イエス様は彼にお問いになります。
 「私に何をしてほしいのか」。
 イエス様はバルテマイの意思を確かめて居られるのです。
 マタイ8:2、3に、ハンセン氏病の男がイエス様の前に来てひれ伏して願っている個所があります。その時のハンセン氏病の男と主との会話を、私の私訳で以下に載せます。
 「主よ、もしあなたが意志して下さるならば、私
  を清くすることがお出来になります」。
 イエス様は手を伸ばして彼にさわり、言われた。
 「私は意志する。清くなれ」。
 こうしてイエス様はこの男を癒してやったのですが、この時の会話に注意してください。以上の会話の文章の中の「意志する」という動詞を、日本語訳の聖書はほとんど、どれも「み心」というように名詞で訳してあります。しかし、ここではイエス様の「意志する」でなくてなりません。この点、カトリックのバルバロ訳(講談社発行)はまあまあです。新改訳にも努力のあとが見られますが。
           *
 人間の心は普通「知情意」に分かれていると思われています。たしかに、そのとおりでしょうが、それほど明確にくっきり分かれているわけでもない。「知情意」、つまり知性と感情と意思の3つは互いに影響しあいつつ、時と場合によってどれか一つが強烈に表に出るのです。
 憎い奴や愛する人に会うと感情が出る。法律文書を読んだり、算数の問題を解く時には知性が働く。そして目的を目ざしてがんばっている時には何よりも意思が抜きん出ています。そして、この中で最も大切な中心の座は意思であると私は思います。
 この事について、私はあまり本格的に勉強はしていないのですが、しかし私は人間の心の中心、つまり人格の中心は意思にあると信じています。
 「人格」とはなんでしょう。むつかしい言葉です。大正昭和にかけて生きた在野のしろうと伝道者・本間俊平は小学校もろくに出ていない人ですが、彼は大胆に言っています。
 「人格、これが大事なんだ。これがどうも日本人には分からないらしい」
 本間さんがそれ以上「人格」の説明をしていないので、私は若い時にそれを読んで、人格というものがよく把握できずに困りました。
 人格という言葉はペルソナというラテン語の翻訳ですが、ペルソナというのは元々はギリシャ演劇で役者が顔につけた仮面のことです。それが後に演劇用語として俳優を論ずる時の用語になりました。単純に「あの役者は……」というような時に使ったのでしょうね。
 ペルソナは英語のパースンです。パソコン、つまりパーソナル・コンピューターのパーソナルの語幹です。言葉としてはパーソナルから分かれてパーソナリティ、これこそ字引では人格とも出ていますが、一般に通用する訳では人柄でしょうね。タレントや芸能人のあいだでも使われているかと思いますが、個性という意味合いが強いでしょう。
 ペルソナという言葉がギリシャ演劇で役者がつけた仮面という言葉から出ているということ自体、人格という言葉を曖昧にしている原因かもしれません。人柄というような表面的な風情を帯びる言葉になってきました。これが本間俊平さんを慨嘆させた原因でしょうね。本間先生に言わせれば、「人格とはもっと本質的、基本的、他にとって替えられない不変の存在だ」と言いたかったのでしょう。それをキリスト教的に言うなら、創造主なる神の前で神と個人的対話のできる存在ということです。
 ここ20年ほど、アイデンティティという言葉が出て来ましたが、自己同一性などと訳します。分かりにくい言葉の最たるものの一つでしょう。
 自分で「うん、おれだ」と自己確認できるような「私」です。幼い時から、「これが私だ」と思い始めてからこの方、ずっと持続して「私である」と記憶できているこの「私」とは「そも何者?」と疑問を呈する時、あなたは哲学者になります。
 肉体も関係します。触覚が存在意識の初めだと言った人がいます。坐ってデンとお尻が椅子に乗っかっている感覚、風にあたる皮膚感覚、これらが原初的「私」の自覚だと言うのです。耳も聞こえず、目も見えなくても、この皮膚感覚や触覚、筋肉感覚がありさえすれば生きている自覚は可能です。これが無ければ自己認識は不可能だろうということ、これは恐怖さえ呼び起こす事実ではないでしょうか。
 この原初的な自覚意識、この意識がそのまま停滞している間は動物的レベルです。しかし、その感覚を味わいなおしてみるとか、もっと強く感じてみようとか、これを記憶しなおして研究してみるとか、そういう意識が働く時、そこに人としての自己意思が働いていると私は言うのです。
          *
 少し意思(意志)について理屈を書きすぎました、ご免なさい。
 かつてスーパーミッションの重要メンバーだった田中政男先生が脳内出血で倒れられたことがある。6年ほど前のことです。しかし奇蹟的に癒されて集中治療室から講壇に凱旋的に復帰されたという血湧き肉踊るような驚くべきニュースをリバイバル新聞で読んだことです。その時の記事によると、重症のさなかで田中先生は「悪魔のささやきに負けてたまるか。私はスーパーミッションの講壇に復帰する」と心の中で叫んだとあります。これが意志の働きです。(その後、ずっとお元気でしたが、昨年ついに天に召されました。地上に残る私たちにとっては非常に残念でありました。)
 チョウ・ヨンギ先生でしたか、ある時、危篤状態の信徒の枕もとに行った。彼のほっぺたを叩いて、彼の最低の意識を呼び覚ましました。そして、「あなたは決して死なない。生きるのです。生きることを宣言せよ。生きることを決意せよ」と言い聞かせました。彼の意思を発動させたのです。そして瞬時に、その信徒はベッドから起き上がったそうです。
 私の旧師・手島郁郎先生はあるとき、聾の女性のために祈りました。そして黒板に文字を書いて彼女に見せました。「心を一つにせよ。心を耳にむけよ。ほら、耳が聞こえ始めるよ。熱心に心の耳を開くのです」と彼女に熱意をもって迫った。彼女は耳が聞こえ始めました。
 以上はそばに文献がないので私の記憶で書きましたが、大要は間違いありません。意思が大事であることを示す良い例です。
 信仰には神と人との協力であると言える面があります。極度の聖霊体験としてまったく一方的神様から来る恩寵体験は別として、信仰の成長という側面から見る時、多くの聖徒たちが強烈な意志をもって神様に従い、神様に献げ尽くし、熱意をもって努力し健闘して、信仰の栄誉、聖化、成果をあげている歴史を見ます。
 旧約の詩人が「わが魂よ、何故うなだれるのか。神を待ち望め、私はなおわが助け、わが神なる主をほめたたえよう」(詩篇42:5参照)と歌う時、彼が彼自身の心に向かって命じ、意志を発動させているのを見るのです。《く》

〔あとがき〕
今回の本文は2000年8月20日の週報34号の旧稿を参考にして、書き直したものです。▼本格的梅雨模様だった6月を過ぎ、今や、まさに夏の暑さです。「暑中お見舞」の季節になりましたが、諸兄姉には、信仰と聖霊様のお護りにより、益々お元気で過ごされますように! 《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2006-07-18 12:32 | 日岡だより
<< No.238 スポーツマン・シ... No.236 わが愛する2つの... >>