No.236 わが愛する2つのJ~内村鑑三先生の言葉から~ 2006.7.9

わが愛する2つのJ
      ~内村鑑三先生の言葉から~

 内村先生は「私どもにとり愛すべき名は天上天下ただ2つあるのみであります」と書きました。それはイエス様と日本のことでありました。
 第一は Jesus 、その第二は Japan でありました。2つともJの字をもって始まる、この2つの名のためには命を献げたいと内村先生は念願するのです。
 先生は言う、「私どもの信仰は国のためでありまして、私どもがキリスト教を信じた第一の理由は、キリスト教が私どもの愛するこの日本を救う唯一の能力であると信じたからであります」。
 これは現代の日本人クリスチャンが聞いたら、驚倒するか、笑い始めるかであろう。現代人にとっては信仰とは永遠の救を選ぶ個人的な問題であって、国家のための信仰などというのは、不純物混入もはなはだしい、ということになりましょう。
 しかし、これが明治のキリスト者(敢えてクリスチャンと言わない)に多かった傾向です。同志社を作った新島譲にしろ、日本基督教会の初期の大立て者、植村正久にしろ、みなそうだった。彼らは明治維新以後の日本を救うものはキリスト教以外にないと信じたのである。
 内村先生は言う。「私どもは日本を棄てて、ひとり自分だけが救われようとは思いません。パウロも言うとおり、『わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない』(ローマ9・3)のです、と。
 「このままでは日本はどうなりますか。この愛する父祖の国に救済の希望はありますか。昼となく夜となく寸時も私どもの心を離れないのは、この問題です」。
 これこそ、現代の、日本に住む私たちキリスト者の問題ではないでしょうか。《く》


弱々しい祈りでも…

 産経新聞の第一面に毎月1回、かなり大きなスペースで、東京都知事の石原慎太郎氏の「日本よ」というエッセイが載る。先週の7月4日では「人間の弱劣化」という題で、石原氏のかなりの長文が載っていた。
 その内容は最近の日本の社会状況に、ほとほと腹が立っているという内容である。戦後の日本の平和と経済成長が生んだ安逸な生活感覚と物質依存主義によって、人間関係が破綻し家族の基本が崩壊しつつあると指摘する。
 マネーゲームの勝者が「金がすべてだ」と豪語、世間の羨望と喝采をあびるが、一旦失敗すると、手もなく没落するなど。
 自分の責任で解雇された男が、家庭があり、子供さえいるのに、その失敗感を押し隠すためか、他人の子供を高層マンションから投げ落すという精神の虚弱性は、なんとも歯がゆい。
 おのが人生がどうにもままならず、死刑になりたいから、小学校に乱入して生徒たちを殺したなどという奴がいるかと思うと、一人では自殺出来ず、ネットで互いに呼び合って密室に集って練炭でガス自殺しようとするやから。
 金のためには耐震偽装設計も敢えてする者がいるし、日銀総裁の身で個人ファンドに投資して巨額を蓄えても恥としない、こうした手合いを見本にあげればキリがない。
 彼らは、自我の喪失者であると、石原氏は罵倒する。私も共感する。その気持ちがよく分かる。
 しかし、こうして石原氏が新聞紙上に鬱憤を晴らし、読者の一般民衆は私を含めて、「そうや、そうや」と賛成はするが、こうした自我意識喪失者を変えることはできない。
 石原氏自身、また多分世にある多くの共感者たちも、自分自身のストレス解消にはなっても、この異常な破綻者たちの意識を変え、彼らを減少させることはできまい。明日もあさっても相変わらず、同じような三面記事が毎日の新聞に載ることであろう。
 こう考えると、石原氏にしても、私たちにしても落胆せざるを得ないということになる。
 どうしたらよいのだろうか。
           *
 実は、私の心も1か月ほど前でしたが、上述の石原さんの言うような鬱憤が込み上げていたのです。
 そして、私は祈りました。主は私に語られました。
 「あなた自身が、この日本の悩ましい現状を背負わないか。あなたの小さい肩で、しかもただ一人だが。そんなことは、お前には不可能に見えるだろう。意味のない無価値な徒労に終わると思うだろうか。
 しかし、あなたが全知全能の私を信じて、祈りの中でこの問題を背負うことを決意するなら、なんらかの変化がこの日本に起こり始めないだろうか。まず、あなたが心をこめ、全力を尽くして祈り始めるのです」。
 こう言われる神様のお声を聞いて、私は正直のところ、しばらく息を呑んで、それからやっと弱々しく祈り始めたのです。そこへ、前述の石原氏の新聞エッセイだったのです。
 ああ、こういう風に新聞で石原さんも鬱憤を晴らしたところで、申し訳ないが、日本の明日に何も起こらないだろう。
 とは言え、私だってもちろん、尚更のこと、石原氏のような社会的影響力の百万分の一もない私のことだ、何が出来よう。こんな小さい私の祈りで、何が起こるだろう、と思いました。
 でも、私はその時、心を決めたのです。「蟷螂が斧に向かう」ような祈りでしょうが、私はその祈りを始めようと思ったのです。
 神様の前に、不承不承、祈り始めました。弱い祈りです。ちょっと祈ってすぐ止めます。我ながら可笑しいです。
           *
 ところが、先日、7月2日の主日礼拝。いつもの常連の信徒諸君の欠席が多い、どうなることかと思っていると、ぞくぞくと新しい人や、たった一度だけ半年前に来たことがあるような人たちが玄関に現われる。
 ある人は、奈良から。あるいは兵庫県西宮から。県内でも大分から40キロ、80キロ離れた郡部から、もちろん大分市内からも来た。
 と言ってもわずか9名ですが、いつも20数名しか会衆者のないこの教会。平素だったら、たった一人、新しい人が来られても大喜びする私たちだ。それが、これはなんとしたことか。
 私は呆然とした。「神様、これが私の弱々しい祈りに対するあなたの、最初のお答えですか。私はなんと信仰の小さい者だったでしょうか。しかし、あなたのなさることは、なんと奇抜でしょうか。私は本当に、いつものように笑いたいです。笑いたいです。」
 これはまさに、私に与えられた神様からの小さな「しるし」では無かろうか。我は神様からの贈り物として受取りたいと思った。
 エリヤの場合の手巾ほどの雲だった。しかし私にはエリヤのように、今すぐ沛然と大雨が降ってくるといった大展開を期待するような信仰もないけれど、しかし、信じよう。
 弱い信仰でもよいではないか。信仰を足し算に、足し算を、掛け算に、掛け算をして、大きな奇蹟を期待しましょう。
 みなさん、祈ってください。祈りの加勢をしてください。《く》

        *

〔緊急付言〕
この原稿を書いているのは7月5日です。北朝鮮のミサイル発射のニュースを今読んでいます。政府もマスコミも、これを外交問題として捉えていますが、これは本当は日本国の安全問題ではないのか。
 この北朝鮮には、このミサイルの弾頭につける核爆弾の用意が既にあるのか。あるとすれば、それは昔の原爆や水爆級にまさる核爆弾なのか。公けの機関の推測も公表もない。
 新聞やテレビも、サッカーW杯や芸能欄の賑やかな記事はやめにして、この北朝鮮のミサイル記事を読ませてほしい。こうした日本の大問題を国民の目から隠蔽するのは、建築の耐震偽装よりも更に良くないと思う。
 万一の時、核弾頭の被害から国民を護る方法は、シェルターを各家庭に配備するほか無いだろう。その予算措置を政府は考えているか。
 尤も、「北朝鮮をこの侭に小児病的我が侭にさせて置くほうが、アメリカにとって日米安保条約等による東アジア覇権を続けるため得策なのである」という面があるのだそうだ。ああ、やはり北朝鮮は外交問題である、と言えるわけだが。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-07-11 23:00 | 日岡だより
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