No.234 私の背後にいます全能の神 2006.6.25

私の背後にいます全能の神

 本日の説教題は「私たちの信じる神は全能の神」という題にしました。説教題としては、長すぎますが、道端に出す教会の看板には、道をとおる一般の人々に印象づけるために、パッと目を射る題にしたい。そこで「私たちの信じる神は全能の神」としたのです。
「この教会の信者さんたちの信じる神さんは全能の神さんか。ヘエ?!」と言わせたいのです。また、この教会にはいってくる皆さんがたにも、「あ、私たちの信じる神は全能の神なんだ」と印象づけたい。そういう私の狙いもあったのです。
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 ところで、今日の説教の主題聖句は創世記17章1節前半、主がアブラムに現われて言われた言葉です。
  「わたしは全能の神である。
   あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」。
 そこで、想像してみてください。今後アブラムが、その後に神様に名前を変えていただいてアブラハムですが、彼が歩む全生涯の行程において、いつ如何なる時にも、彼の背後に全能の神様がおられる、ということです。
 言わば、神様が彼のうしろにあって輝く時、それはちょうど、後光のように輝くわけです。神の栄光のオーラが常に彼に付きまとうのです。そして彼の為すこと、すべてが神の業となります。
 そこで、「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」という言葉は、神様の命令の言葉というより、神様の約束の言葉、祝福の言葉なのです。《く》


続・愛についての書簡

 前号に引き続き、「愛」についての書簡です。
 愛についての究極的説明は、聖書そのものが最適です。ヨハネの第一の手紙4章7節以降を読みましょう。ここの文章にまさる愛の説明は他にないように思います。
 愛というのは私たちの愛ではなく、神様が私たちを愛してくださった愛だと言うのです。イエス様にある十字架の愛です。この愛に打たれて初めて、私たちは互いに愛し合うことができるのです。
 さて、第一ヨハネの手紙のここでは、「神の愛が私たちのうちに全うされる」とありますが、「私たちのうちに全うされる愛」とは、どんな愛でしょうか。ヨハネの胸を掻き裂いて探ってみたいほどです。 ヨハネが斯く言う信仰の境地は、恥ずかしいですが私にはピッタリと分かりかねて残念です。これは使徒ヨハネの到達した高い愛の境地だと思いますが、ともあれ、ただ分かることは愛ということは、神様に愛されて初めて分かるという事です。
 この辺でパウロの手紙をさぐってみたいと思います。まずエペソ3・17~19です。
 パウロは言います。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって満たされるように祈る」と。これは先にさげたヨハネの「私たちのうちに全うされる神の愛」のことだと、理解して差し支えないでしょうね。
 そして、そのためには、キリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さを理解する」ことが肝心だと言っているようであります。どうしてそんなことが出来るでしょうか。その秘訣をパウロは17節に明かしているようです。こう言っています。
 「<1>信仰によって、キリストが私たちの心に住み、<2>私たちが愛に根ざし愛を基として生活することにより」、それが出来るとパウロは言っているのだと思います。
 このことは、更にエペソ5・1、2を読むと、理解しやすくなると思います。「こうしてあなたがたは神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい」。
 キリストにある神様の愛を基礎とし、神の愛に根ざし、神の愛に倣って現実の時代に生きて行くという、クリスチャン・ライフの提唱です。
 このように、現実の生活のレールが敷かれなくては、信仰の言葉は空理空論になります。空疎な人生論になります。
 本当に地上で空気を吸い、太陽の光を浴び、朝昼夕の飲食をし、夜の眠りのなかに夢を見さえする生きた人間にとって、聖書の教えは生きるための技術書でもあります。生きる信仰の実技が分からなければ、信仰は生きた信仰になりません。
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 そこで第一ヨハネ4・8の「神は愛である」の一句は、愛を語る最高の言葉です。昔のキリスト伝道の会場では、よくこの一句を大きな提灯に黒々と書いて吊り下げ、人々の集まるのを待ったものです。
 「神は愛である」という言葉を比喩的に取らないことです。神の存在そのもの、神の実存そのもの、神のすべてが愛一つである、というように受けとめましょう。そうすると、愛が人格となって、動詞的に人類に迫ってくる、その肉体的実存化がイエス様であるのです。
 そこで、あらためてイエス様のお言葉を思い出すのです。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・12)。「私があなたがたを愛したように」というお言葉には、イエス様の命をかけた気迫が感じられます。
 そこで、この「ように」という言葉を単なる模範とするか、あるいは真似するとか、ということではなく、「イエス様が私の中に住み、私がそのイエス様に根ざし、イエス様の栄養分を吸い上げて、イエス様の命を生きるかのように」と読んでください。
 模範でも真似でもなく、生命源として、それに頼りきって生きるのです。そのイエス様の生命を受けとめる時、イエス様の生命は罪人のために十字架を背負う生命力です。
 先のヨハネ15・12に続いてイエス様は言われます。「人がその友のために自分の命を捨てること。これより大いなる愛はない」と。そこで続けて「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われる。
 この言葉には二重の意味があります。
 <1>あなたがたが、友のために命を捨てるような愛のわざを行うことが出来るということは、イエス様ご自身があなたを友として、あなたのために死んでくださり、イエス様の命があなたの中に生きているからこそ、あなたにはその愛のわざができたのだということです。
 <2>同時に、その時あなたはイエス様の友となっているのです。あなたは正にイエス様の尊い友なのですよ、親友ですよ。
 こうして、第一コリント13章の愛の章の大宣言が主を信じる者に実現する訳です。信仰、希望、愛、そのうち、愛が最高です、とパウロ先生が言われる。
 その最高の徳を頂く秘訣はイエス様の命を頂くことにあります。この命に根ざして、命をかけて、互いに愛し合いましょう。たとえその人が敵であっても、「友よ」と呼んで命を与える人になることができます。
 私はいわゆる「ユダの福音書」を信じません。ユダはイエス様を正に売ったのです。しかしイエス様はご自分を売るために偽って接吻を求めてくる時に、彼に向かって主は言われました。
「友よ、なんのためにきたのか」。
 主は友である彼のためにも死なれたのです。
 彼が木にくびれて死なずに、なぜ十字架のイエス様のところに行って、「主よ、赦してください」とひれ伏さなかったのでしょうか。これがユダの最大の失敗です。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-06-27 17:05 | 日岡だより
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