No. 福音の旗を掲げよう 2006.6.18

福音の旗を掲げよう

 近日、星野富弘さんの詩画展が福岡で開かれるらしい。毎日新聞の一頁のほぼ全面を占領して、作品の4、5点をカラー印刷で挿入して、紹介記事を載せていた。
 もう5年か、10年たったと思うが、大分でも星野さんの詩画展が開かれたことがある。それを見に行った中尾閲実さんがプンプン怒りながら帰ってきた。「先生、あの星野さんの絵、気持ちのいい言葉を書いてあるけれども、それだけで、神様のこともイエス様のことも、全然書いていない。腹がたった」
 と言うのであった。今回、上述の毎日新聞の一頁のほぼ全面記事をみて、かつて中尾姉の慨嘆を思い出したことである。
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 星野さんはイエス様を信じるキリスト者ではなかったのか。なぜ、その信仰を表に出さないのか。読んで、「ウン、ウン」と大衆を納得させ、考えさせ、人生を想わせる気分のよい言葉ではある。悪いことではない、たしかに良い言葉だ。
 しかし、なぜ信仰を隠すのか、まさか隠れキリシタンのつもりではあるまい。現代は信仰を語るにはまことに開けっぴろげな有り難い時代である。戦前を覚えている私には、まことに涙が出るほど有り難い時代である。
 いま、何かかっこよい言葉を語って、信仰者の気分を匂わすだけで、伝道ができたと満足してすむ時代ではない。もっと福音の旗を高く掲げよ。遠慮するな、と言いたい。星野さんを責め立てるのは個人的には気の毒だが、多くのキリスト者諸兄姉に警鐘を鳴らしたいのである。《く》


「愛」についての書簡

 某姉より「愛」について、どう考えたらよろしいのかとの、ご質問を頂きました。愛についての説明を始めると、非常に長くなるという見とおしもあって、第一便、また第二便と日を分けて送りたいと、最初にお断わりしたことでした。
 その第一便が私のワープロに残っていますので、そのままを最初の挨拶は除いて以下に掲載します。
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 あなたのお手紙の中で、「愛という言葉に、ふしだらな感じがある」ということに、ふれておられましたが、これについて面白い話があります。
 明治の中ごろでしょうか、外人宣教師が伝道集会で「皆さん、互いに愛し合いましょう」と聖書の言葉を使ってお勧めをしました。ところが聞いていた若い人たちの間でクスクス笑いが起こりました。宣教師さんは、それがなぜか分からず戸惑ったそうです。愛という言葉に「性愛」を意味するところがあることを宣教師さんは知らなかったのです。
 愛という言葉が、キリスト教的な深い清い意味では、まだ滲透していなかった時代のことですね。明治以前の古い時代では、愛という言葉は仏教用語として煩悩を意味する言葉でした。
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 とは言え、愛という言葉が案外にも明治の初期に高度な意味で使われている例があります。
 それは西郷隆盛の有名な「敬天愛人」という言葉です。西郷さんが、どういう経緯でこの「敬天愛人」という言葉を使ったのか、私は残念ながら知りません。しかし、驚くべき言葉だと思います。
 天という言葉も、中国系の用語としては神をさします。それも唯一神をさすことが多いようです。
 イエス様が教えられた、「最高の律法とは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる汝の神を愛せよ。また己れのごとく汝の隣り人を愛せよ、この二つである」という言葉と軌を一にします。
 西郷さんがこういう高い境地を、言葉だけでも言い得たということは、なぜでしょうか。彼は一度長崎に行って宣教師に会ったという記録があったように思います。その宣教師さんから聖書の話を聞いたことがあったのかも知れません。
 そうだとすれば、その宣教師は1859年に長崎に来たフルベッキ宣教師だろうと思います。この方は後に東京に行き、明治天皇からも招かれて、宮中で聖書のお話をしたらしいことも分かっています。
 明治天皇は後日あるお局さん(世に言う愛妾です)の一人に「お前の息子はキリスト教の牧師にせよ」と言ったという話があります。事実、そのとおりになって、今、堺市で牧師をしている小林先生がその息子さん(あるいは孫?)だそうです。
 こういうことから、明治天皇もキリスト教を信じたらしいという噂もありますが、それは不確かです。しかし、皇族の中にどこかキリスト教に対する好意があるのは確かなことのように思います。
 天皇家の問題は興味がありますが、それはさておき、西郷さんは聖書の中の愛という言葉を知っていたのかも知れない。これこそ興味ある問題です。
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 ギリシャ語で愛という言葉は5つあるそうです。
 ヨハネ福音書21:15~17の中で「愛する」という言葉の原語はアガペーとフィレオーの2つに分かれています。15、16のイエス様のお言葉はアガペーですが、17に出てくるイエス様の「愛する」という言葉はフィレオーになっています。それに対し、ペテロの答える15、16、17の「愛する」は、すべてフィレオーなのです。
 アガペーは神様やイエス様の愛で、命を捨ててまで罪人を愛してくださる神的な愛です。それに対しフィレオーは人間同士の「親しみの愛」だそうです。これも良い愛ですが、アガペーには劣ります。
 ギリシャ語の愛で、広く知られているのはエロースです。これは性的な愛を示します。世間で言うエロチックのエロの語源です。しかし、ギリシャ古典では真理を求める良い意味でも(プラトンなども?)使われているそうです。
 もう一つは、肉親愛。つまり親子や兄弟、夫婦の間の愛をストルゲンと言います。よく人間の愛の中では、母が子を愛する愛以上に深い愛はないだろうと言われます。アメリカでの実例ですが、ある母親が自分の子供が目の前で自動車にひかれるということがおこった。そのお母さんはいきなり自動車に飛びついて車を引き上げ、子供を助けたそうです。
 ところで、お父さんだってこうです。韓国の釜山での実話。鉄道のレールの上で子供が遊んでいました。そこへ電車がブレーキかけながらも迫って来る。そばにいたお父さんが「危ないッ」と叫びつつ、飛びこんで子供を撥ねとばしたが、そのお父さんは死んでしまったと言います。これが父の愛です。
 これらの親の愛は自分の子供に対する愛だけで、他人の子供に対して発動しません。その点だけ、閉ざされた愛です。
 しかし驚くべきは、先年の東京の中野駅でホームから落ちた人を救った韓国の一青年のことです。この青年がホームから飛び降りて、落ちた人を救い上げ、そして自分は列車に引かれて死んでしまったという忘れがたい事件のことです。
 こうした神様のアガペーの愛にも似たすばらしい愛の行動を起こして下さる人が時には実際に居るということ、本当に驚異、感謝です。
 神様に造られた人間には、すばらしい神様の愛の魂が些かでも残されているらしい、この貴重な、かつての新聞の報道を思い出したことでした。《く》

〔あとがき〕
第一頁の星野さん批判は、温和な星野さんには大変失礼な直言で申し訳ないのですが、この事について6月16日の祈祷会で「はっきり語れ」と題して、メッセージしました。聖句はコロサイ人への手紙4:4にあるパウロの言葉、「語るべき言葉をはっきり語れるように祈ってほしい」を選びました。「何につけても、はっきり語ろう。世間や人に向ける言葉も、神様の前に語る祈りの言葉も、自分自身に向かって語る自己宣言も、はっきり語ろう」と言うことでもありました。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-06-20 23:38 | 日岡だより
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