No.232 聖書は神の直伝の書/ダ・ヴィンチ・コードについて 2006.6.11

聖書は神の直伝の書

 ダ・ヴィンチ・コードの評判につられて、聖書の権威を疑わせようとする本が続いて出版されている。「捏造(ねつぞう)された聖書」とか、「イエス・キリスト 失われた物語」とか、そういう類の本である。
 いずれも、イエス様の神性を否認し、キリストも人間であった。だから結婚もしようし、子供も生まれるだろう。聖書は人間が都合よくでっちあげたもので、矛盾や欠陥が沢山ある、といった具合である。
 多くのクリスチャンたちも、こういう本を読むと、かなり動揺するだろうと思う。聖書が現在の形になるまで、何度かの会議を経て、古くからの写本類を取捨選択してきたことを知っている人なら、尚更のことである。
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 しかし、多くの会議を経てこうなったとしても、斯くならしめたのは聖書自身の力なのである、ということを私は強調したい。
 聖書自身の力が、聖書編纂者を突き動かして、斯くならしめたのであると、聖書は語っている。神の霊感が聖書記者をして、このように書かしめたのである(第二テモテ3:16、第二ペテロ1:21参照)と。
 言い替えれば、聖書は神の直伝の書なのである。このことは、聖書自身が聖書を読む私たちに証明する、それが聖書の力である。
 私たちが、聖書を読んで、イエス様を信ぜざるを得なかった。そして私たちの内に人挌の変革が起こった。このことが何よりも、聖書に霊的力があることの証拠である。《く》


ダ・ヴィンチ・コードについて

 多くの日本の民衆にキリスト教に興味を持たせるためには、今回のダ・ヴィンチ・コードの本ほど効果のあった例はない。誰でも読みやすい小説仕立てのようであるから、有り難い。「ようであるから」というのは、私はまだ読んでいないのである。
 残念ながら、さすがの読書好きの私も、最近はとみに読書力が落ちて、特にこういう反キリスト的と分かっている文章に対しては読む気力が起きない。
 ともあれ、前頁に書いたように、次々に類似本が出て来るようで、私は歓迎している。
 このくらいの本で、信仰の危機を感じるクリスチャンは、まだ本当のクリスチャンではないのである。そういう方々は、この機会に真の信仰の再建築をしてほしい。
 キリスト教信仰と言わないで、「教」を除いてキリスト信仰と言ってほしい。私どもの教会の名称を私は「キリストの福音大分教会」とつけたのも、似たところから来ている。
 キリストの福音大分教会と呼んでいただく時、この「の」は所有挌の「の」である。キリストの所有される福音を私たちは信じ、この福音に私たちは属するのである。
 一般にキリスト教会と呼ぶ時、キリスト教の会と誤解される懸念がない訳ではない。断じてそうではない。キリストの教会であって、キリスト教の会ではない。
 クリスチャンのチャンを、まさか「サッチャンはね」のチャンと思っている人はなかろうが、似たようなものかもしれない。このチャンはキリスト「の者」という意味である。
 クリスチャンはキリストの者になりきっていてほしい。イエス様を信じているつもりのクリスチャンでは困る。イエス様を信じるとは、どういうことか。イエス様の朱印が赤々と心臓に打ち込まれている人のことである(エペソ1:13参照)。
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 聖書を読みましょう。聖書は第1頁に書いたように神様直伝の書である。神様が書いた本であるから、書いてあるままを、そのまま信じるのである。
 旧約聖書では、神様は唯一の万物の創造者なる方であると書いてある。そのことを信じましょう。それがクリスチャンである。
 新約聖書ではイエス・キリスト様は真の神であり、また真の人間であると書いてある。そのことを信じましょう。それがクリスチャンである。
 旧約聖書における父なる神様の神髄は、「我は有りて在るものなり」と言われる、そのコトバの発信源そのものの方である。言いつめると、そのコトバそのものである。
 そのコトバこそ、その方がキリストである。キリストが人間として地上に表れる時には、彼は神様が最初に作られたアダム以上に、理想的人間、欠陥なき人間、神様そのままの姿に造られた人間なのである。だから、助け人が不要なのである。つまり妻を必要としない存在である(創世記2:18参照)。
 肉体的父を必要とせず、「人の子」としてお生まれになった方は、ご自分も肉において子をお造りになることはない、霊において子を造られる。
 霊の子らは風のごとくに新しく生まれるとイエス様はニコデモに説明されたとおりである。
 だからイエス様をいわゆる普通の人間並に、妻を必要とし、生殖において子を造らざるを得ない存在として解釈するダ・ヴィンチ・コードのキリスト像は、偽のキリストである。
 キリストは、真の神であって、なおかつ真の人間なのである。
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 このようなイエス・キリストを理解することは、並の人間の理性では不可能である。まして、信じることは出来ない。
 どういう人が、それが出来るか。それは、真の神であり、なおかつ真の人間であるイエス様ご自身が、その人の心に宿る時、それができるのである。
 キリスト信仰とは人間が「信念」をもって神の存在を認め、信じ、イエス・キリストを救い主と認め、これを信じることではない。信仰とは信念のことではない。
 イエス様が私の内にお住みになってくださって、信じるも信じないもない、まさにイエス様が私の内におられることを直感させられている、そういう事実をさす。
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 物が燃える時、火はその物とは全然異質なものであるが、その物に寄って燃える。人は肉なる存在であるが、聖霊の火が燃えると、人は燃える。
 しかも聖霊の油が注がれるので、いつまでも燃える。その内、肉は燃え尽きてしまうが、新生した霊なる私は死ぬことはない。そして天に帰って行く。
 イエス様を信じる信仰が、それを実現させてくださるのである。主を賛美しましょう。《く》

〔あとがき〕
去る6月4日夜、予定どおり東京秋川集会に寄せていただき、小集会を持たせていただいた。赤坂家、相馬姉、瀧澤兄のご愛に感謝します。▼翌日は八王子の野上家を訪問、時間が少なくて残念でしたが、夫妻と主にある交わり、祈りを共にできたことを感謝します。▼5日、6日は、御茶の水のキリスト教学生会館で日本民族総福音化運動の評議委員会に出席しました。総裁が奥山実先生、事務局長が手束正昭先生、大分からは橋本守先生もご出席。その他、全国から20名ほどでしょうか、世間並の表現をすれば多士済々、元気のよいご意見、談論風発、珍しく(?)黙っているのは私だけ、ということでした。▼特筆すべきは手束先生の提案でした。目下、日本における新宗教の間に分裂騒ぎが起こる可能性が強い情勢あり。これら教団から脱出してくる鍛われた信者さんたちを、キリスト教圏に迎え入れる用意が必要だということ。あたかも、先週の本紙に紹介した元創価学会や幸福の科学の幹部を務めて現在鈴木先生のシャローム教会の信徒になっている小沢さんが来席していて、同兄に今後のそうした受入れ体制作りの助言と応援を得ようということも話題になりました。今回、本紙に執筆しました「ダヴィンチ・コードの良き効果」も期待できる現在の時代趨勢の面白さに注目したいと思います。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-06-13 11:07 | 日岡だより
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