No.231 愛国心とは何か 2006.6.4

愛国心とは何か

 「愛国心とは何か。それはエゴイズムを国家大にしたものである」、という言葉をある本で読んで、「なるほど」と思ったことがある。まだ、戦前のことだ。
 人間の造る組織や団体は大きくなれば大きくなるほど、人間のお互いの欲心や自己防衛心をモロにむき出して、それが善いことだと思わせる力学がはびこる。この傾向に逆らうことは本当に難しい。
 特に国家が「愛国心」などと言い出す時には、キナくさいものがあたりを覆う。軍備必要論が妖怪のごとく動き始める。そうこうしているうちにハッと気がついた時には、もう「愛国者」たちが鼻をうごめかせ、肩をはって歩き始めている。昭和の一桁の頃がそうだ。上海事変が始まったのである。
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 「愛国心」の出所を「愛郷心」になぞらえて、なんだかロマンチックな色彩に染めて語る人がある。これはインチキである。「愛郷心」には母性を恋うるような秘めた感情がある。「愛国心」には外敵を意識する排他精神がある。
 ただし、予想できる外敵にたいして、国民を護ろうとする護民精神は是非無ければならない。外なる敵から最新の核弾頭を打ち込んで来る時、これを頭上にあびる国民をその災害から護ることは果たしてできるのか。やってくる核弾頭を完全に迎撃できる武器は今の日本にもアメリカ軍にもあるようには思えないのだ。
 西本さんのシェルターの輸入販売を応援したい私の思いはそんな所から来る。これこそ、本当の愛国心、いや護民精神である。《く》


創価学会に負けるな

 リバイバル新聞の6月11日号に、小沢さんという方の「日本の宗教と政治」という欄があって、創価学会のことに触れている。この小沢さん、元創価学会の幹部であったらしいし、その後、幸福の科学の理事長にも就任、その後、クリスチャンになったという人物だ。
 このような人には、今のこの日本のキリスト教の沈滞ぶりに対して、ズバリものを言う十分の資格がある。心して聞きたいものである。1950年代から、戸田、池田と続いた折伏大行進の頃、あの爆発的エネルギーはどこからはじき出てきたのか、もともと日蓮系の宗団にはこういう勢いはあるのだが、それにしても創価学会は凄かった。
 先週のこの「日岡だより」で、まず上げたのは、日本の霊的暗部を衝くということであった。そして日本にたいするジェイコブスさんの預言と、天野先生のしるしと不思議の集会であった。
 そこで言いたかったのは、<1>私たちの祖国日本に対する神様による洞察と政策と、<2>聖霊による奇蹟的伝道の必要であった。
 そして、今回言いたいことは、<3>私たち日本の伝道者、クリスチャンがかの創価学会的熱意と行動力をもって日本宣教に乗り出すべきだということです。
 このために、まず何が必要か。第一に信仰の明確さです。全クリスチャンに、はっきりした回心を求めたい。あのパスカルがメモしたような「火の体験」がほしい。

        火
  アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
  哲学者や学者の神にあらず
  確実、確実、感激、歓喜、平安
  イエス・キリストの神
  Deum meum et Deum vestrum.
         (わが神、即ちなんじの神)
  なんじの神はわが神なり
  神以外、この世および一切のものの忘却
  神は福音に示されたる道によりてのみ見出さる
  人間の魂の偉大さよ!
  「正しき父よ、げに世はなんじを知らず、
          されど我はなんじを知れり」
  歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙

  われ神より離れ居りぬ
  わが神よ、我を捨て給うや
  願わくば、われ神より永遠に離れざらんことを


回心について

 尤も、回心と言っても、誰でも同じような激しい回心をするわけではない。
 最近、茂木健一郎さんという人の「ひらめき脳」という本を読んで気がついた。これは宗教体験としての回心について考えさせられる。宗教体験としてと言うのは、キリスト教も含めてのことだが、激しい回心と言えば、使徒行伝に出るパウロのダマスコ途上の回心など良い例だろう。
 私がしばらく属した手島先生の幕屋には、そういう例が多かった。今、西東京で伝道しておられる今橋先生などは、私も親しくしていただいたかの桜井先生の熱い按手祈祷により脊髄カリエスがバリバリ音を立てるようにして癒されたのだが、同時に信仰の回心をされた。
 ちなみに「釘宮先生の回心はどんなでしたか」と今橋先生に聞かれたから、私の獄中回心記を語ったが、「その程度でしたか」とちょっとガッカリしたみたいで申し訳ない気がした。たしかに、私の回心はしっかりした確かな回心ではあったが、それほど外見的に驚かせるほどのものではなかった。
 私は「一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」(第二コリント5:14)のお言葉により、「ああ、私もそのすべての人の一人だ。私の古い人はもう死んだのだ。私はもうキリストにある新しい人になった」と一瞬に悟ったのである。それは私にとり、かけがえのない徹底した回心であったが、しかし私の内面に起こったことで、外側では何の変化もない、簡単な事件であった。
 しかし、その日から私は俄然変わったのである。それは福岡刑務所の独房の中で起こったことである。
 だれ一人、私の内面の回心を悟る人はいない。しかし、その日からから、私は明るいきびきびした囚人に変化したのである。まず囚人仲間の雑役から、そして担当看守から、そして中央詰め所にいる看守部長にいたるまで、私の変化に気がついた。「あの902番に何が起こったのか」。私の囚人番号は902番であった。
 それでも今橋先生の回心にくらぶれば、まことにおとなしい回心であった。
 茂木健一郎さんの「ひらめき脳」を読むと、発明家や芸術家が「ひらめき」を覚える一種の心理学に脳生理学をプラスしたような気分変化、このひらめきと称する「気づき」、これには大小あるが、宗教者の回心に似ていることを発見するのである。
 聖書を読んでいて、小さな一句に「ハッ」とひらめく小さな回心から、ジョン・ウェスレーやチャールス・フィンニーなどのような明確な回心にいたるまで、そして私の父・釘宮太重や私の母や、私や、私の妻や、私の初期の信徒の皆さんにいたるまで、大小の差はあっても、それぞれ明確な回心を経てクリスチャンにさせていただいたのである。この恵みを多くの方々に体験して頂きたいと思うのである。《く》

〔あとがき〕
回心を英語でコンバージョンと呼ぶのが普通であるが、ある英語に慣れた人に言わせると、宗教的回心の場合はコンバーションと言うのが正しいそうである。回心については、新教出版社の「回心記」(石原兵永著)が、参考になると思う。少なくとも、私などの体験してきた回心というものを、如実に表現している文章は、この石原先生のものが一番良いように思う。ご講読をお勧めする。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-06-06 18:06 | 日岡だより
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