No.227 錬達なる基督者たれ 2006.5.7

錬達なる基督者たれ

 やや堅苦しい標題であるが、故意にこうしたのですよ。まず、「錬達」ですが、こういう熟語は私の持っている限り、どの辞典にも出てこない。あるのは練達である。どこが違うか、その上の文字を見て下さい。糸偏の練です。金偏の錬は鉄材などの精錬に使う文字である。しかし、この金偏の錬を日本聖書協会の口語訳聖書の新約聖書では使っている。かつての文語訳も、近年の新共同訳も、糸偏の練を使っている。
 日本聖書協会の口語訳聖書は1954年(昭和29年)に出た。
まだ、戦後の日本語の表記は、模索していた時代であるが、当時の改訳委員会は、よくも大胆にこういう文字を用いたのである。私はこの大胆さを称賛したいです。なお、旧文語訳にしても、同意語として、練達という文字を使っていることに、やはり先輩たちの語感を褒めてあげたいのです。
 特に私はローマ人への手紙5:1~5の文中における使用について感動します。実は今回はこのローマ人への手紙の個所について、講義風に書きたいのです。特に目を止めているのが、この錬達という熟語であります。
 次に、こだわっているのが「基督者」という文字である。この文字も明治の先輩たちの傑作だと思う。勿論、キリスト教信徒に対して使うクリスチャンという言葉に対応する漢語スタイルの表記として使ったのであろう。苦しまぎれの訳語とも言えるが、どうしてどうして名訳である。誰がこんな訳語を作ったのであろうか。出来てみれば当然の訳語かもしれないが、頭の悪い人にも、頭の良い人にも思いつかない、しかしあって当然の「コロンブスの卵」的訳語だと思う。ひょっとしたら、誰が使い始めたか分かっているのかもしれないが、たぶん内村鑑三か植村正久というところであろう。
 今回のこの記事は錬達というやや堅苦しい熟語の下に続けるには、クリスチャンでは少々柔らかすぎてバランスがとれないという私の文学少年時代の習癖から出た遊びに過ぎないのだが、許してください。辞典を調べたら、マルティン・ルターの「基督者の自由」の題名としても出ていた。この「基督者の自由」は誰の翻訳だったかしら。
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 さて、ローマ人への手紙5:1~5を読んでください。まず第1節だが、ここで「信仰によって義とされた」という言葉が出てくる。ここを、新改訳では「信仰によって義と認められた」となっている。これは新改訳の癖で、ローマ人への手紙では第3章以来、こうなっている。実は日本聖書協会のほうでは、文語訳以来新共同訳にいたるまで、「義とする」という訳語と、「義と認める」という訳語とを厳密に使いわけてある、もちろん、原語はそのように異なるのである。
 このことについては、もう天に帰られたが、福音派の巨匠・森山諭先生から教えられて初めて気がついたのでした。一般に新改訳聖書は福音派の専用のように思われていたから、この森山大先生のご指摘には私も驚いたものです。また、この新改訳聖書の訳語について、それなりの神学的立場があることも教えて頂きました。
 ともあれ、私は「義とされる」という、ズバリ「義化される」という信仰の成果を、「義認」という信仰の賜物から切り離して語る立場に、目を見はる思いがしたものである。「信仰によって義と認められる」ということは、私たちキリストの福音を信じて立つものの第一の信仰の基盤である。しかし、その上の段階に「信じる者を、そのまま義と化してしまう」というみ言があったことに私は驚いたのであった。
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 第1節の最後、「平和」という言葉に目を止めたい。これはアウグスチヌスの有名な言葉、「私たちは神に造られたので、神に帰るまでは平和を得ない」という言葉を思い出させます。イエス様を信じて、最初に受ける賜物はこの「魂の平和」だと思います。それと同時に「喜び」も加えられると思います。
 なお、これ以後に起こってくる恵みに、さまざまな霊的賜物や霊的果実が与えられる、それが第2節の初めに出てくる「さらに」です。こうして信仰のステージがしだいに上がってくるのです。
 早く第3節に入りたいので、他は省略しますが、ただ、ここに出て来る「喜ぶ」という言葉は本来「誇る」という意味です。高らかに誇って大いに喜ぶという言葉です。第3節もそうです。
 第3節は有名ですね。「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを知っているからである。」
 信仰による通常の平和と喜びは、ともかく患難をも喜ぶ、この患難という言葉の原語には心理的な痛みのみならず、肉体的苦しみをも含んでいると聞いたことがあります。これが本当だとすると、先になって述べたいのですが、英語の訳語に関連して、ハッと気づくものがあるのです。
 さて「忍耐」です。聖書でいう忍耐という言葉は、私は若い時に聞かされましたが、「預言者的忍耐」であって、じっと小さくなって、忍んで忍んで、我慢している、そんな忍耐ではない、自分から困難、苦難、厳しさにぶっつかって行く忍耐である、と言うのです。まことに旧約の預言者を彷彿とさせる忍耐の理解であります。
 さて「忍耐は錬達を生む」という個所。いよいよ「錬達」です。
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 錬達という言葉。言葉の意味しらべではなくて、その実際の人生における吟味です。
 錬達という言葉は「実験されて実証されたもの」という感じの言葉です。患難を身をもって通り抜け、一苦労も二苦労もして、勝利してきた筋金入りの達人と言いますか、そういう信仰の人生の奥義を掴んでいるという人材タイプを差す言葉だと理解してみましょうか。
 この言葉を英訳で見ると、しばしばキャラクターとなっているのですね。新アメリカン・スタンダードでは「証明済みのキャラクター」などとなっていますが、このあたりを日本の新改訳は参考にして「練られた品性」としたのだろうかと、うなずけます。
 このキャラクターという英語の語源はラテン語だそうで、その意味は「刻印」だそうです。「ハハアー」と私は思います。先に書きました、患難という言葉は心理的なことばかりではなく、肉体的な痛みも含むと言います。
 パウロがガラテヤ人への手紙の最後のほうで書いた「イエス・キリストの焼き印を身に帯びている」という言葉、もしもパウロが各地での迫害のなかで「火あぶり」のリンチにでもあったことがあったとすると、又、他の傷でもそうですが、パウロの肉体に受けた傷に「刻印」という想像をあてはめてみると、「証しされた傷の刻印」というように解釈もしてみたくなります。
 錬達という言葉には、以上のように千軍万馬の勇士があらゆる戦場を駆けぬけて、いろんな条件、場面、相手、如何なる状況にも勝ち抜いてきた風貌を感じさせるものがあります。
 そこから「品性」という言葉により印象を受ける人格的好ましさ、品の良さ、優しさ、スッキリした正義感、道徳的完成さ、意志の強さ、そんなものを感じるでしょうが、しかし、それ以上に、大胆さ、勇気、行動力、悪魔的存在との戦いや、戦略というか、格闘技の戦士の腕の確かさ、巧みさ、何が起こっても対処できる臨機応変のたくましさ、そういう錬達ぶりを想像できるのです。
 それは人生の現場で戦い、生き抜いて奥義を握った人の姿です。「筋金入りの基督者」とでも評したらどうでしょうか。体躯の中にも、頭脳の中にも、心の中にも、あらゆる場面で勝利し、成功してきた強力な力と誰とも戦える巧みな技、長引く戦いにも粘って粘って後に引かない持続力、こうした抜群の能力を地上でひしめく悪魔の働く場面で発揮できる人です。
 こうした錬達力を持った基督者、つまりクリスチャンよ、出でよと、現代の教会は待望する。そうした人材を待っているのです。何にもへこたれない。大分の某高校の有名な校訓だったが、「しまれ、がんばれ、ねばれ、おしきれ」。
 こういう場合、心理学的に言うなら、意志の鍛錬である。イタリアの心理学者、アサ・ジョーリは言う。「意志のはたらき」が大事だ。意志のはたらきの第一は「善き意志」、第二は「強い意志」第三は「巧みな意志」、最後の注意は「未熟な意志は愛の心を欠くもの」である。愛と結びつき、宇宙的大いなる心と一体化せよ、とアサジョーリは言うのである、最後の個所は正確ではないが、教会の得意とする所、聖書的に、聖霊により訓練出来る。
 そして最後に私は言います。「ねばれ」という例の校訓ではないが、継続のことである。「継続は力なり」、これは「一村一品」の元・平松大分県知事のご尊父の名言であるが、たしかに継続は力、継続は習慣を生む、習慣は第二の天性。三島由紀夫は言いました。習慣こそ、人間の最高の力であると。
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 錬達せるクリスチャンよ、出でよ。その為には祈りなさい。単なる「おねだり祈り」ではない。神様に厚かましくも断固として祈る、あるいはおとなしく黙想して祈る。黙想はイグナチュース・ロヨラの霊操の技法です。御言を黙想するのです。無念無想でもなければ、もちろん雑念妄想でもない。
 大胆に、「神様に愛され、励まされ、力を頂き、喜びを頂き、知恵を頂き、勇気を頂き、神様に愛されて信頼されている者にふさわしい、あらゆる能力、聖霊の賜物、聖徳の力、美的感覚、すべての善きものを頂ける」として、それらの言葉を口で、また心の中で宣言しなさい。日本語でいうなら、言霊の力です。神の力があなたにはいってきます。
 信じなさい。祈りには、懇願の祈り、告白、宣言の祈り、父なる神様との会話の祈り、イエス様がパンを祝福されたような祝福の祈り、癒しの祈り、悪霊叱責のいのり、遠隔の人や物にたいする影響力を与える等の祈りもあります。いたずらな興味をもって、こうしたことにオカルト風な試みを絶対してはいけません。
 こうして、神様に喜んで頂ける(!)すばらしい言葉をあなたの内に充満させ、交流させ、心臓から血液が全身をめぐり、全身から汚れた血液を清めて再び心臓に持って帰るように、神様の聖霊があなたの心から出て行って心に帰る。つまり、聖書でいう心という言葉はギリシャ語で心臓(カルデア)なのです。多くの西洋人が心という時、胸に手をあてますが、それは心臓を無意識にさしています。とにかく、心は人間の内面で「霊と肉」との戦う戦場なのです(心の法則、ローマ7:23)。
 心から空しい汚れた思いを追い出し、清い神の思いを流入させて頂き(それは聖霊様のお働きです)、その新しい清い神様の思いが私たちの霊的全身を駈けめぐり、奔流となって回転する、そこに新しい私たちの改造の窓口があるのです。これこそ、一人一人のトランスフォーメイション(変革)であります。
                   (2006.4.30夜、鳥栖古賀町集会にて。《く》)
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by hioka-wahaha | 2006-05-09 11:31 | 日岡だより
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