No.226 「悔い改め」という言葉 2006.4.30

「悔い改め」という言葉

 最もキリスト教らしい言葉は、世間一般では「神は愛なり」という聞きなれた言葉であろう。
 しかし一旦、教会の主催する伝道集会に行ったことのある人は、イヤになるほど「悔い改めよ」という言葉を聞く。
 「信仰」という事は、「イエス・キリストを信じること」らしいけれど、その事はまず置き、まず「悔い改めなければ」何事も始まらない。まず「悔い改める」こと、そうすれば「信仰」ということは、そのあとで分かる。そんな感じである。
 ところで、私の少年時代、ある宣教師が私に言った。「日本の信者さんは、『悔い改めた』『悔い改めた』と言うけれど、『悔いた』と言うだけで、『改める』ことをしないから、信仰が中途半端なんです。心から悔い改めて、生活を改めなければなりません」と。私は内心、抵抗を覚えたものである。
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 これが欧米流のキリスト教の欠陥かもしれない。表面では、そこまでは言わないにしても、市民一般が心の底で思っていることは、これまでの過ちの生活を止めて、教会に帰り、正しい生活を始めること、これが信仰なんだと思っているのである。
 過去の南洋伝道では、こんな様子であった。食人の習慣のある島の土人がキリスト教を信じた。彼は腰簑を捨てて洋服に帽子、ハンケチを胸に教会にやってきた。彼は正に悔い改めたように見える。熱心な宣教師にとって、キリスト教の伝道とは西洋文化を伝えることでもあった。宣教師夫人は教会の婦人会の女性たちに西洋料理を教えた。宣教師先生は中学生たちにバイブルクラスと称して英語を教えた。
 しかし、「悔い改め」とはそういうことではない。根本的に精神の方向が変わることである。そういうことを私に教えたのは石原兵永であり、内村鑑三であった。他にもそういうことを厳しく言う先生がたはかなり多く居たと思うが。
 心の底にドンデンガエシが起こる。「回心」、英語でコンバーションと言う。私はそれを22歳の秋、福岡刑務所の独房で経験した。聖書の言葉が鋭利なメスの如きレーマ(次頁参照)となって、私の魂をえぐり、私は新しく生まれ変わったことを意識する。これこそ、私の第一次の聖霊経験であった。第一次聖霊経験が曖昧であると、次の第二次聖霊経験が曖昧になる恐れがある。《く》


天国は近いのだ……

 人生には酷い患難の時があるものです。そう言うときのクリスチャンの信仰の持ちかたについて述べましょう。ローマ8:28を開きましょう。
「神を愛する人々(中略)のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 聖書の引用については、私はいつもは口語訳を用いています。しかし今回は新改訳です。傍線の個所が文語訳では「凡てのこと相働きて益となる」とあり、口語訳も新共同訳も、これに似ています。この点、新改訳は良いのです。「すべてのこと相働きて益となる」という訳しかたは、どうも運命論に偏り過ぎています。
 私は強調したい。人間の人生は運命によって動くのではなく、神の摂理によって動くのであると。
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 ここで、私の私的神学を述べたい。
 私は、神の属性を「全知、全能、至正、至愛」の4つの言葉にまとめてみた。この四つを一語に言い代えれば「聖」である。しかし、この言葉を「全知、全能、至正、至愛」というように4つに分割すると、神様の活動力を説明するのに便利です。
 全き知恵、全き能力、至極の正義、至極の愛と憐れみに、神様の動きは表れます。宇宙の設計、創造、保管、これは神様の知恵と力の相しからしめる所。かつ天使や人間の世界における倫理的秩序と情緒面の綾、その維持、管理、そこに至極の正義、至極の愛と憐れみの御心がしたたり落ちて、宇宙の精神界の海にひろがり、うるおすのです。
 これらの神の力と御思いは言葉によって被造物の世界にもたらされる。その言葉の本源は言葉ならぬ意志の領域です。神のご意志が言葉で表現される時、それがレーマであり、預言者によって伝えられれば聖書の言葉です。
 そして霊的言語であるレーマによっても、また預言者によって伝えられる異言や預言によっても尚、神の御心が人類に対して貫徹しないようならば、人類の究極の罪を全く赦し、人類を地獄から解放するためには、神はそのご意志(つまりみ言葉)を地上に送って、肉体格化する非常手段を取らざるを得ないのです。
 それがイエス・キリストです。そして、そのイエス・キリスト様の十字架の死と復活によって、赦しと解放のご聖業が完遂されるのです。
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 私たちが難関に遭遇する時、まず神の「全知、全能、至正、至愛」を信じよう。この四つの御属性に委ねさえすれば、万事は好転する。今、当面している如何なる悪事は一つとして善事に変えられないことはない。なぜなら、その御業を為したもうのは全能の神であるから。全知の計画性をもって如何なる変更と変革をもなさしめることは可能なのである。
 しかも、私たち人間の側に如何なる悪辣にして忌まわしき悪心があろうとも、神の徹底した愛と憐れみにより、神の正義を貫徹すべく神様の執拗な贖いと聖化の御業を、キリストの死と血潮をもって成し遂げることができるのである。
 十字架上で叫ばれた「テテレスタイ」のイエス様のお言葉こそ、「すべては完成した」と言われる神様の勝利の叫び、イエス様の天国への凱旋のトランペットなのであった。この勝利の言葉こそ、宇宙がサタンの霊縛下から神の国開国への転進を始める一瞬である。この言葉を信じるものは皆救われる。
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 さらにここで重要な手順がいる。かつて自分たちが持っていたが、長い間、サタンに捕われ、収奪され、持ち去られ、サタン王国の倉庫に積み上げられていた、その一つ一つに対し、奪還する宣言の言語行為を為さねばならないのである。
 多くのクリスチャンが折角クリスチャンになっても、相変わらず弱い、貧しい、悲しい、不自由な境遇にいるのは、この奪還の権利を宣言していないからである。
 神様は既に、ご自身の御手で、福音の言葉により悪魔に打ち勝ち、私たちを解放された。同様に私たちも言葉により、私たちクリスチャンの権利を言葉によって宣言しよう。こうして私たちは現に、強力な、裕福な、快活な、香気あふれる、品格のあるクリスチャンに羽化することが出来るのです。
 最後にまとめたい。クリスチャンの出現は、まず信仰の告白に始まる。そのクリスチャンが各自のサタンから奪われたものを奪還する、行動が始まる。
 その時、元気な気分のいいクリスチャンが生まれる。そのクリスチャンがさらに伝道、奉仕、悪魔の事業に対する戦いを始める、そこに神の国が実現する。こうして、神の国は私たちの住むところに実現する。
 この神の国という船に乗って私たちはイエス様が手を振って待っておられる永遠の空へと上ってゆけるのは、それほど先の事ではない、今すぐなのだと、みなさん声をあわせて叫ぼうではありませんか。「天国は近い。もうすぐ来ます」と。《く》

〔あとがき〕
先だって当教会にいらっした神田先生が残して行かれた子ども向きの本ですが、「ゴンダールのやさしい光」を北側の回覧図書の机上に置きました。どなたもお読みください。▼今、世界の問題は「飢餓」と「戦争」です。これを止めさせる道は前号に書いた民衆の「くに」が世界に生まれることです。日本が、まずその国になってほしい、それが私の願いです。▼そのためには悪人からピストルを持って迫られても動じないで、「私はあなたを愛します」と言いつつ笑って死んでゆけるような人たちが、この日本という島に溢れる時、それが実現します。そんなことは不可能だと言う人もありましょう。理想主義者の夢でしょうか。しかし、人類がイエス様の愛を身をもって知るとき、それは可能になるでしょう。▼「ゴンダールのやさしい光」では、日本からアフリカの飢饉地帯に食料を持って行ってあげた時のこと。ある遠方から辿りついた2人の少女が、地域が違うので可哀そうに分けて貰えません。その2人に、先に僅かながら食料を貰っていた人が自分の家の分を分けてあげたという実話が載っています。▼分けてあげれば、その分だけ自分の家の餓死が早く襲ってくるという予感におびえざるをえない、差し迫った事態です。これほどのことは、かつての日本でも体験しなかったことです。こうした無私の愛を人類は持ち得るのですね。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-05-02 12:14 | 日岡だより
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