No.225 民衆の品格 2006.4.23

民衆の品格

 一昨年の12月、新聞で藤原正彦さんの「国家の品格」という本の広告を見た。早速、書店に行ってみたが、まだ来ていない。私は東京に行く日だったので、すぐネット注文して、そのまま空路東京に向かった。羽田で飛行機を降りてモノレールで浜松町に行くと、すぐ書店「談」に寄るのが習慣になってしまっているが、はいってみると店頭に「国家の品格」が山積みにされているではないか。
 「ワァ…」と心の中で小さく叫びながら、すぐに買った。そして、東京駅から立川に向かう中央線の中で読んでしまった。期待したとおりの共感を呼ぶ本だった。読後感はジャンルは違うが、少年時代、斎藤茂吉の「万葉秀歌」を読んだ時の目のさめるような日本語再発見の感動に似ている。
 ところで、今回書きたいのは、私の願望する「日本の品格」である。私はまず「国家」という言葉に問題を感じる。なぜ「国家」なのか。藤原さんは「国家」なるものに何かを期待しているらしいが、それは「国家」にたいする理想があるからである。私は藤原さんは純情な人だな、と思う。
 ヒトは集団化して組織を造ると必ずと言ってよいほど、それなりの利益追及の利己主義集団になる。だから、ある人は言った。「要するに愛国心とはエゴイズムを国家大にしたものに過ぎない」と。
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 私は国家という言葉にひそむ、自己防衛の規律による硬化した政治意志を感じる。人情とか愛とか麗しさとか、そういう柔らかい語彙が出てこないのである。
 そういう国家を造り支えるものは政治家であり、官僚であり、また軍人である。日本が、たとえ「平和憲法」を持っているとしても、やむを得ず自衛隊を持ち、やむを得ずイラク出兵をする。そこにはヒトの素朴な感覚はないのである。
 私はかつて「日本よ、世界のカントリーになれ」と言ったことがある。それは、民衆が居て、「国家」という形が無い「くに」のことである。だれでも時には「くにに帰りたいなあ」などと思う、あの「くに」である。しかし一般の民衆が、今のままの骨のない民衆では困る。品格という骨のある民衆で出来ている「くに」、そういう「くに」でありたい。それが私の夢である。品格ある一人ひとりの民衆が品格ある「くに」を造る。そういう日本を夢見ている。《く》

 
イエス様のご命令
 
 たとえば、「悪人に手向かうな。右のほおを打たれたなら左のほおを向けよ」、有名なイエス様のお言葉です。ちょっと、凡人には出来そうもないお言葉です。よくよく考えれば、こうした一連の言葉が並んでいる、言わゆる「山上の説教」のイエス様のお言葉は、動機論的に、その行為を発する人間の心根を問うています。これは根源的な問い詰めですから、万事は不可能、絶対不可能な言葉に見えるのです。
 これを厳密に実行しようとすると、大トルストイが道徳的無力な自分に絶望した末、家出して一寒村の小さな駅でわびしく死んで行ったのですが、ああした結末にならざるを得ません。
 イエス様は預言者として、しばしば命令や審判の言葉を語りました。また一方ではイエス様は救済者として、赦しと解放の言葉を語りました。この両者をつなぐ橋がない、とある学者は言っています。尤もなことであります。この矛盾を埋める言葉は使徒の書簡まで下らないと出てきません。イエスとパウロという対比で神学論争が起こるのは、ここに原因があります。
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 さてイエス様の倫理的、道徳的命令の言葉についてですが、これを私は若い時から、よく「……べし」、すなわち「……可シ」という漢語の3つの使用法を使って説明したものです。つまり、この「……可シ」はたいてい命令形ですが、また可能性を示し、あるいは必然性を示します。つまり命令形として聞けば「……しなさい」です。たとえば朝起きたら「顔ヲ洗ウベシ」→「顔を洗いなさい」ということです。可能性として聞けば「……ができる」です。たとえば君はこの研究を「成シ遂グベシ」→「成しとげることができる」ということです。必然性でしたら、「必ず、そうなる」。たとえば水を百度に熱すれば「沸騰スベシ」→「必ず沸騰するはずだ」ということになります。
 イエス様の命令形の言葉を聞く時、これを以上のように解説して、可能性あるいは必然性で聞くと良いよ、というのが私の年来の主張でした。
 簡単に言えば「約束」として聞く、ということです。これは決して理屈を言っているのではありません。キリストの十字架の福音に接したとき、この理解が魂の底から湧き上がるように起こってくるものです。
 イエス様が「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と仰せられました。これを本気で命令のお言葉として聞いたら、正直な人は気絶します。しかし、以上のような「可能性、約束」として聞けば、イエス様は「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となることができる。その日が必ずやってくる。私を信じ、私に従って来るならば、必ず天の父のような完全な人になれるよ」と仰せられたのだと信じられるのです。
 その日は何時の日でしょうか。イエス様がゴルゴタの十字架の上で「テテレスタイ」(すべては完成した)と叫ばれた日からです。つまり、イエス様の十字架のあがないの御わざが成就する日です。その日が来るまでは、あのようなイエス様の命令語は誰にも理解できない、単なる行き過ぎた人間離れのした厳格な道徳訓戒に聞こえるだけです。
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 ですから、これらのお言葉を福音言語として理解し、かつ語るには、異邦人伝道の担い手として主に選ばれたパウロが最も適任者であったのです。「信仰によって義とされる」、この誤解されやすい真理を語るには、まさに使徒パウロが適任でありました。
 イエス様のお言葉が、あなたの魂の中で独自に立ち上がる時がきます。聖霊様の働きです。そして困難至極、絶対不可能と思われていたお言葉を素直に受け入れている自分に気がつくのです。
 八木誠一氏はこういうお言葉の働きを「自覚喚起機能」と呼んでいましたが、イエス様が真摯な思いで弟子たちに語られた、これらのお言葉を、どうぞ、もう一度噛みしめてください、これらの福音言語を。
 そこで、実技派の私としての、ぜひ申し上げたい、とっておきのお言葉、ヨハネ14:21をお読みください。
「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。」
 この最後の傍線の言葉は、主を真実を求める者にとっては身震いするほど驚嘆すべき言葉です。イエス様ご自身が私たちの心の中に現れて下さるというお約束です。そしてその約束を受けているのは、イエス様のいましめ(命令)を心に抱いてこれを守る(Keep)者なのです。ここは日本聖書協会の口語訳は少々意訳すぎる感じなのですが、今回は「いただき」です。
 たとえ実行出来そうにもない厳格なイエス様の命令の言葉であっても、いつも心に覚えて貯めておきなさい。(参照・昼も夜も思っていなさい。詩篇1:2)。そうすれば、イエス様はご自身をあなたに現わして下さると、おっしゃって下さっているのです。《く》

〔あとがき〕
来週はオープン・チャーチ(市民公開礼拝)です。信徒の皆さんが一般の来会者に向けて良い証しのお話をして下さると良いですね。やってみたいと思われる方は、準備しておいてください。できるだけ「原稿」を書いて何度も練習しておくとよいですよ。目の前に人々が居る場面を心にイメージして、本気で大きな声を出して、やってみるのがコツです。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-04-25 12:44 | 日岡だより
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