No.224 「復活祭」の喜び 2006.4.16

「復活祭」の喜び

 先週の主日は、教会暦では「棕梠の日曜日」でした。イエス様がエルサレムに入城された日です。群衆が棕梠の葉を道に敷いたり、またそれを手にかざして、「ホサナ、ホサナ」と叫びつつ主を迎えたのです。その群衆が数日後には「十字架につけよ、十字架につけよ」と主を罵って連呼したというのですから、たとい祭司たちにそそのかされたにしても、又、すべての者がそれほど簡単に心変わりしたとも思えませんが、それにしても大衆の頼り無さには驚きます。民主政治を衆愚政治とけなす人もいる所以です。
 先週一週間が受難週、私の母などの時代は教会は「克己週間」と称してイエス様のご苦難を偲び、せめてもの真似ごとですが、一日一食の断食ぐらいしたものです。
 さて、今日は復活祭、一般にはイースターと言いますね。イースターとは、ローマ時代の春の女神の名前だという説もあるので、私はできるだけ復活祭と称しています。
 欧米では皆で朝早く外に出て、小山などに登り東に向かって「ワッハッハハ」と呵々大笑するのだと聞いたことがあります。「ワッハッハハ」は何も私の専売特許ではありません。
 失敗した時、病気の時、気落ちした時、金を無くした時、人の評判を無くした時、とにかく失地回復、復活の原理であるキリストの力をお招きしましょう。「復活の主よ、あなたを信じます。私の中に来てください。ハレルヤ! お出でください。ワッハッハハ」と、歓呼して迎えましょう。復活の主を! 《く》


まだ空き地がある

 「氷がとけると何になる?」。「水になる」。これでは普通の答えです。ところが、「氷がとけると春になる」と答えた子どもがいました。重い智慧おくれのお子さんだったそうです。
 ある研修会で、この心のあたたまる話を紹介した後、田中信生先生が質問しました。「氷がとけると何になるか。この問いに対して、外に何か答はない?」。講習生はみんな頭をひねりました。いい答えが出ない。そこで田中先生、一言。「氷がとけると、ぬかるみになる」。
 最初の「氷がとけると水になる」は科学的唯物論的視点。第二番目の「氷がとけると春になる」は詩的感傷的視点。そうすれば第三の「氷がとけるとぬかるみになる」は何という視点でしょう。それは社会的配慮の視点です。人がぬかるみ道を行く苦労を思いやる兄弟愛(ヘブル13:1~3)の視点と言えましょうか。
 これこそ発想の転換です。さて、「氷がとけると……」にくらべると、味が無いですが、ビジネスマンなどの研修会でよく引用される例話にこんなのがあります。「コップに水が半分ほど入っています。ある人は水が半分しか入っていない、という。ある人は水が半分も入っている、という。どちらが前向き、肯定的、積極的なものの言いかたでしょうか」、答えは勿論、後者ですね。
 先ほどの田中先生にまねて、このどちらでもない、第三の考えかたがあるとしたら、どういう答えでしょうか。こうです。「ほら、半分、水を入れられますよ」。これは、コップに残っている空間のほうに目をとめて、そこに可能性を求めている考えかたですね。
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 私は先年、大阪で行われたチャールス&フランシス・ハンターの「いやしの講習会」に出席したことがあります。ご夫婦ともヤンキーらしい元気のいい人で、規格はずれの愉快な講壇の姿に好感を持ちました。もっとも、いやしの実技面があまりに具体的だったので批判が起こったかも知れませんが。しかし、私は実技的方法論は大好きです。そのことは、さて置き、フランシス夫人の証しが良いのです。言わく、
 「私が最初いやしの祈りをしてあげた人は死んでしまいました。その後、1000人のために祈りましたが10人しかいやされませんでした。しかし、私はめげなかったのです。私は、私の経験よりも神様の言葉を信じたからです」。
 1000人の中のたった10人!、運よく偶然に癒される人があったというだけでも、その程度の確率は越えるのではないでしょうか。しかし「私のいやしは失敗だった」とこの人は決して考えなかったのです。いつか必ず、残る990人もいやされる日が来る。必ず来ると、それを信じ、期待に燃え、喜びに満たされて、その日を楽しんでいるようにも見えたのです。
 これこそあのコップの空間に水が注ぎ込む事が出来ると発言するものの見方です。無の中に有を発見する信仰です。
 教会に会衆が20人しか集まりません。ベンチがずらりと80人分空いているとします。その時、「きょうも20人しか集まらなかった」とは言いますまい。また、「20人も集まったんだよ」とも言いますまい。
 断固としてこう言いましょう。「まだ、残りの席が80もある。これは必ず埋まる。『路地まで行って誰でも連れて来い』、と主は言われたではないか。私たちは刈り入れ場に出て行こう。主は必ず、この席を埋めてくださり、溢れさせてくださるであろう」と。
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 「見えないものに目をそそぎ、まだ見ぬものをまこととする」(第一コリント4:16、ヘブル11:1参照)という空を満たす信仰を、私たちの現実において、体験的に学ぼうではありませんか。
 もう10数年も前のことになりましたが、永井先生から仙台に神学校を造るヴィジョンを聞いた時、いささか信じ切れませんでした。当時そこには何も無かったのです。あるのはただ神様の約束と先生の夢だけでした。
 その後のことです。まったく夢のようないきさつで5000坪の敷地が与えられました。しかし、当初はまだそれだけでした。外には何もなかったのです。しかし、何も無いところこそ、信仰が働く場所。これが創造的信仰の鉄則です。その後、次々に奇蹟的物事が続いて見事に学院は完成しました。
 最初の年、学生は10人ほど、一にぎりです。余りにも残りの空間が広すぎます。しかし、そこにこそ、将来の夢がありました。
 当初、その一にぎりの神学生の諸君も、基礎的学問が足りない、学資が足りない等々、いろいろ足りないものを感じたかもしれません。しかし、足りないことはいいことです。そこにこそ、これから先、ずっと満たされ続けるという可能性があるのですから。
 学問で言うなら、たとえばギリシャ語。諸君の頭の中に語学的教養はてんで見つからないにしても、次のように断言しましょう。「私の頭脳の空き地に必ず聖書のギリシャ語が満ち満ちる日がくる。その日を期待して感謝します」と。
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 以上は当時の拡大宣教学院機関誌「マグニファイ」に、私が寄稿したものですが、死から生へ飛躍する「復活」の原理を語ったつもりでもありました。(釘宮)
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by hioka-wahaha | 2006-04-18 11:57 | 日岡だより
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