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No.222 落ち穂拾い献金箱 2006.4.2

落ち穂拾い献金箱

 今日の世界の飢餓地帯の問題と、その援助の実態はどうだろう。その問題について日本国際飢餓対策機構の神田英輔先生が先日お見えになって語ってくださった。先生が持って来てくださった「飢える世界と私たちの責任」という本にも、先生が書いておられたが、同じ話を当教会でもされた。
 「落ち穂拾い」の話であるが、この題のついたミレーの絵は有名である。これは旧約聖書のルツ記にヒントを得て描かれたものに違いない。
 物語は飢饉のユダヤからモアブという国に逃れていった「難民」の話である。
 約十年間の「難民生活」で夫と息子が先に死に、その妻が飢饉の終わった祖国に帰ろうとする。息子の嫁になっていた外国人の嫁が、その義母を慕って2人で一緒にユダヤに帰った。
 その嫁がなんと働き者。近くの人の畑に出て行って落ち穂を拾い集めて、何とか食いつなごうとする。たまたま出かけて行った畑の地主が彼女に親切だった、そして2人の間にロマンスが生まれ、結婚するという美しい話なのである。
 「落ち穂拾い」というのは、ユダヤでは昔の律法で認められていた貧民たちの権利なのであった。前記のモアブ人の嫁は他人の畑にこっそり入って、盗人のようにオズオズ落ち穂を拾ったのではなかった。
 旧約聖書レビ記19章9、10節に、こうある。「あなたがたが畑の刈り入れをする時、隅々まで刈り尽くしてはいけない。落ちた穂や果実の実を拾ってはならない。それらは貧しい人たちや、寄留の外国人たちのために残しておきなさい」、なんという憐れみに満ちた規定であろうか。旧約聖書にある神の律法である。
          *
 日本人は昔から、勤勉で几帳面です。畑の隅々まできれいに収穫して、取りこぼしをしない能率的な仕事ぶりでした。これは褒めてよいことです。一粒も残すまいと、最近のマータイさんの「もったいない運動」ではないが、拾い上げて行くのは日本人の良いところでしょう。
 昔は消費者の一般の家庭のほうでも、御飯を食べているとき、一粒もこぼすまいと気をつけたものです。万一こぼしでもすれば、拾い上げて食べました。今なら、「非衛生だ」と非難されるかもしれませんね。
 これは日本人のよいところでしょうが、翻って先ほどのレビ記第19章9、10節を思い出してください。ここにレビ記の精神がある。あるパリサイ人に「最も大切な律法はどれか」と問われた時、イエス様のお答えの第2番、「自分を愛するように隣人を愛せよ」という言葉の出所も、このレビ記第19章でした。
 日本人にも「相互扶助」の気持ちは有りました。二宮尊徳翁の事跡を見ますと、その精神が伺えます。また一般庶民のお互いの不安を予期し合って「無尽」や「たのもし講」を作ったのにも、それが現れていると思います。
 しかし、いつどこの誰にかも分からない、必要に備えてやろうと、物を残してゆこうとする考えは「もったいない」以上の愛の知恵です。
 そこで、ある先生の提案です。もし、私たちが物を買ったおつりに1円、5円の硬貨を貰った時、これを「落ち穂」と考えたらどうでしょうか、と言うのです。なるほど、どうかすると道に落ちていても、拾わない、そうした小さなお金を「落ち穂」として、日本国際飢餓機構の青色の献金箱に投げいれてはどうでしょうか、名案だとは思いませんか。《く》

 
「あなたの口で言うとおりになる」

 「あなたの口で言うとおりになる」という言葉、これに類する言葉は最近、本屋の棚によく散見する。この標題の言葉ズバリの題名の本は、エターナル・ライフ・ミニストリーという出版社から出ている。著者はドン・ゴセット先生である。ご講読を奨めます。
 さて、ヨシュア記を開いてください、その第1章。モーセの跡を継いで「さて、おれ大丈夫かな」と多分不安であっただろう若大将ヨシュアに神様がお語りになった言葉が載っている。ヨルダンを渡り、約束の地にはいってから、必ず勝利を得るという励ましの言葉のあとで、「強く、また雄々しくあれ」という短い言葉を3度、神様は与えておられる。
 私はこの「強く、また雄々しくあれ」という言葉に注意する。このような言葉をいかほど神様から与えられても、ヨシュア自身、黙ったままでは彼の心に勇気は湧かないだろうということだ。
 「いいえ、黙っていても勇気は出ますよ。自分は一人で頑張って、よく走ったものです」というマラソンの選手がいたとする。よく聞きただせば、彼はコースを走っている間、ずっと「がんばるぞ、がんばるぞ、監督が気合いれてくれたなあ」と心の中で言い続けていたと、照れながら言ったことでしょう。
 口に出さないけれども、心の中では絶えず、自分に向かって言い聞かせていたわけです。それは、余りに当たり前すぎて気がつかないのですが、本当はずっと心の中で言い続けている。こうしたことは、しょっちゅうあるのですが、当たり前すぎて気がつかないのです。
 ところで、こうした言葉を特に口に出して言うと、効果はもっと大きいということを、前述の本は言うのです。いや、最近は一般の本でも、そういう本が多くなりました。
 ヨシュアは「はい、分かりました、神様。私は強くなります。雄々しくします。私は強くなります。雄々しくします」と何度も自分で言ったと思います。
 たとえ口では言わなくても、心の中ではヨシュアは一生言い続けたかもしれません。モーセに負けない英雄的生涯を送るためには、このことは必要でしたというより、このことはヨシュアの一生の習慣になっていたと私は信じます。
 「治る、治る、きっと治る」と21日間言い続けたら、重い喘息がいっぺんに治ったとか、「私は仕合わせだ」と千べん言ったら、幸福気分の人間になったとか、そういう実例を書いた本もありますが、しかし、断然第一番の本は聖書です。
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 私が救われたのは、一瞬の霊的覚醒によったのでしたが、それは「ひとりの人がすべての人のため死んだ以上、すべての人が死んだのである」(第二コリント5:14下)という聖書の一句が私の魂を打ったのでした。
 私はその頃(弱冠22歳でしたが)、寝ても覚めても聖書の言葉を思い出していました。例の兵役法違反で刑務所の独房にいましたが、実は幸福でした。聖書は禁じられていましたが、たった一度だけ諦めずに申し込んでいたら、ある月に聖書を一か月だけ間違って貸してくれました、その聖書を一か月脇目もふらず読むことが出来たからです。
 そうして読んだ聖書の言葉の、そこかしこの言葉が脳裏に残っていて、終日口ずさんでいたのです。その中の前述の一句が突然、私の霊性に覚醒を与えたのです。
 ヨシュア1:8や詩篇1:2に「律法の言葉を昼も夜も思う(新改訳では「口ずさむ」とありますが)、そのような人は「あなたの道は栄え、あなたは勝利を得る」、また「そのような人は時が来ると、実を結び、葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」と、約束されているのです。
 私は何よりも、聖霊の約束の実を得て、アウグスチヌスやジョン・ウエスレのような回心を与えられました。劣等感や不安や、悪心に勝利を得ました。さらに、付録もありましたね。私の楽しそうな落ち着いた生活ぶりは、他の囚人となんの変哲もないはずなのに、看守たちの関心を呼び、何かと好意を示し、便利を図ってくれたものです。
 同じ口にする言葉であるにしても、聖書の言葉には不思議な神の力があるのです。ですから、まず聖書の言葉を口で言いましょう。それを聖書では「告白」と言います。罪の懺悔も「告白」ですが、救いの言葉、励ましの言葉、神様のご約束。そうした言葉を口で言い表しなさい、あなたにその言葉が事実となってあなたに実現します。
 また、その他の「善い言葉、麗しい言葉」も集めてみて、その言葉を「告白」してみることもお勧めします。「私は幸福です。私は嬉しいです。楽しいです。希望満ちています。私は元気です」等々。皆さんも「楽しい言葉」集めをしてみませんか。《く》

〔あとがき〕
今日、4月2日の午後6時までで、残る時間が少なく残念ですが、時間のある方にお勧めします。トキハの明野センターアクロスの3Fで「希望の人権展」という催しが開かれています。創価学会系の主宰ですが、気になさらずに見てください。▼ヘレン・ケラーやガンジー、ペスタロッチやマルティン・ルーサー・キング、また「アンクル・トムの小屋」のハリエット・B・ストウ夫人などの直筆のメモや手紙なども展示されていました。未開発国の子どもたちの描いた美しい絵もありました。先だっての神田先生の世界の飢餓問題と併せ、学ぶことの多い展示会でした。《く》
by hioka-wahaha | 2006-04-04 11:55 | 日岡だより
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