No.220 幸福に生きる秘訣 2006.3.19

幸福に生きる秘訣

 「幸福に生きる秘訣」は簡単である。自分で「私は幸福である」と思い切ればよいのである。「そんなことは私にはできません」と言う人は多かろうと思う。しかし、戦前「幸福論」を書いて有名だったアランは、確か、こう言った。
「幸福とは感情の問題ではなく、意志の問題である」。しかり、繰り返すが、「私は幸福である」と思い切ればよいのである。
 幸福は追い求めているだけでは、やって来ない。これも戦前、女学生諸君が愛誦した詩であるが、カール・ブッセの作。
  山のあなたの空遠く
  「幸い」住むと人の言う
  ああ、われ人と尋(と)めゆきて
  涙さしぐみ、かえり来ぬ
  山のあなたになお遠く
  「幸い」住むと人の言う
 せっかくの上田敏の名訳だが、用語を少しく戦後風に変えた。ああ、如何に多くの人々が、この詩のように「幸い」を求めて、これを自分のものに出来ず、涙さしぐみ帰ってきたことであろうか。
 私も青年時代、人生は悲哀であると思っていた。真実に生きる人は、この不誠実な世界に生きて、悲哀ならざるを得ない、と思っていた。その頃、デンマークの哲学者キェルケゴールの本を読んだ。扉に彼の写真があった。うつむいて、手を外套のふところに入れて歩いている、そこに悲哀の人を私は見た。笑止なことであるが、その頃の私はキェルケゴールを真似て、うつむいて歩いたものだ。
         *
 多くの人はイエス・キリストも悲哀の人であると思っている。しばしばキリストを描いた絵は十字架上で、うらめしげに天を見上げている、と言うのは言い過ぎかもしれないが。とにかく優しい憐れみに満ちたお顔の絵は多いが、「ワッハッハ」と哄笑している絵はない。しかし本当のイエス様は筋肉たくましく、行動は敏捷で活発、声は朗々として、幸福そのものであったに相違ないと思う。
 聖書の中でイエス様が笑ったという記事は一か所もない。これには高砂教会の手束先生も不審に思ったことがあるという。そして「ハッ」と気がついた。イエス様はいつも笑っておられたからこそ、それが日常的で当たり前のことであった。聖書記者はそれを書くことを忘れてしまったのであると。
 聖書にこんな記事がある。72人の弟子たちが伝道旅行を終わって、その成功した伝道の結果を報告をした。その時、イエス様は聖霊によって喜びあふれて、父なる神様を賛美している(ルカ10:21)。
 その「喜びあふれる」という言葉が、原語では「アガリオー」「狂喜する、喜び踊る」という意味である。ここでイエス様が狂喜乱舞するお姿を想像するのは、決して不謹慎ではあるまいと私は思う。
 この「アガリオー」という言葉が、マタイ5:12では、イエス様の言葉として、イエス様のゆえに人々からののしられ、迫害される時に、あなたがたは「喜び、よろこべ」と仰せられている時に使われているお言葉である。
         *
 私は最近、「アシュレー」というヘブル語を覚えました。これは埼玉の瀬木久子先生から学んだのです。先生とは一昨年の高砂アシュラム以来仲良くなって以来のメール交換です。先生からの受信で、いつも冒頭の挨拶に「ハレルヤ、アシュレー」と書いて来られる。この「アシュレー」とはどういう意味ですか、と私は恥ずかしげもなく先生に質問したものです。すぐに先生からご返事が返ってきた。こうです。
 「アシュレーという言葉は、たとえば詩篇第1篇1節の冒頭に出てきます。そのヘブライ語は『幸せだ、その人は』という感嘆の叫び声です。『幸せ(アシュレー)』というヘブライ語は、複数になっているそうで、ですからこの幸せは、『もろもろの幸せ』という意味になります。最初の一言で『さいわいだぁ』と溢れるばかりの感動を述べているのだというのです。
 主イエス・キリストが『山上の垂訓』の冒頭で『さいわいなるかな、こころの貧しき者』とおっしゃいます。実に『さいわいなるかな(マカリオイ)』と9回も叫ばれたのです。それと同様に『アシュレー(さいわいだぁ)』も、声をあげて信仰の友と喜び合える素晴らしいキリスト者の挨拶言葉だと思うのです。
 聖書の新共同訳も新改訳も『心の貧しい人は幸いである』式に『幸い』が説明の言葉で後にくっついていますが、何か間が抜けているような感じです。『しあわせだぁ、さいわいだぁ』とアシュレーの叫びを最初に持って来ますと、自然に天の主に向かって欣喜雀躍する心が如実に表わされているようではありませんか。
 新改訳の詩篇1:1では『いかにさいわいなことか……』と訳されていますから、このアシュレーの喜びがあふれていて、私はうれしくなって主を褒め称えるのです。」
 以上、瀬木先生の説明ですが、なるほど詩篇1:1にしても、山上の説教のイエス様の第一声(マタイ5:5)にしても、「幸いなるかな」は原文では、その冒頭にきます。現代文に直せば、「幸いだよう!」という呼び声、あるいはシュプレヒコール、また宣言であるのです。
 この言葉をあなたの声で、あなたの耳に言い聞かせてごらんなさい。その言葉が「種」となって、あなたの心の畑に降ります。その時、イエス様のマタイ13章の喩えで言うなら、あなたの心を道ばたや石地やいばら地ではなく、良い地にしましょう。そうすると、その「幸いだよう!」という言葉が多くの実を結ぶに違いありません。ですから、
 もっと多くの種を撒きましょう。もっと多くの実を結びます。「幸いだよう!」と、なんべんも、それこそ斎藤一人さんではないが、千回も言ってみたらどうです。あなたは本当に「幸いな人」になるのです。
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 そこで、言います。もう一度、最初の文章にもどって下さい。アランは言いましたね。「幸福とは感情の問題ではなく、意志の問題である」と。そこで、お奨めする。
 まず聖書を手にしてください。聖書は幸福を約束する本です。イエス様の教えは「福音」です。福音とは「幸福の音ずれ」です。「幸福の訪れ」です。「幸いだよう」という言葉を聞くだけで、ゾクゾクするような幸福がやってくるのです。
 さあ、この音ずれに耳を傾けましょう。そして私は幸福になるんだ、と意志を決めてください。幸福になってやるんだと腹をきめるんです。そして幸福そうな顔をしてください。幸福人らしくはりきって歩いてください。何時もワッハッハハと笑ってください。神様の偉大な約束、「あなたは幸福人間なのです。」《く》

〔あとがき〕
本号は2003年6月29日に発行「日岡だより」第78号の再掲載です。古いものを載せるのは気がひけますが、私自身、今、妻が病床にいるので多少とも心配が無いと言えば嘘になります。しかし、そうした今だからこそ、かつての自分の文章を見つけだして、自ら励まし、また幸福人らしくワッハッハハと笑っているというわけです。ご祝福を祈ります。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-03-19 00:00 | 日岡だより
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